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疫病荒野

コレラの猛威

シベリア

シベリア翌21日、マルクドバ村を出ると、左右は全て森林で、大木が鬱蒼と茂って炎天を遮ってくれた。この頃夜行を止めて昼間に騎行したのは、天氣が曇りがちで雨も降ったこともあるが、道が森林の中を通っていて騎行に都合がよかったからである。森を突っ切って11露里行くと、道端に一本の標柱が立っていた。これこそヨーロッパロシアとシベリアとの境であった。ウラル山脈は地理上での欧亜二大陸の境界であり、ここに立っている標柱は政治上のロシアとシベリアとの境である。故に、ここから西は民政を敷き、ここから東は軍制を布き、それによって行政を行っている。この辺りはよく肥えた土地が広がっている。ロシアの人口は年々200万人が増加している。ヨーロッパ諸国は土地が狭く人口が多いため、食料を他国に求めて人を国外に移住させているが、ロシアは人口が増えることは上記のとおりであるが、隣国に移住する者もなく、農作物はだいたい他国に輸出している。これはひとえに土地が広大で肥沃であるからである。シベリアはまさにロシアの宝庫なのであろう。11露里進むと林を抜け、さらに30露里進んでウスペレスカヤ駅に泊まった。

シュメン

中佐の騎影は既にシベリアの大平原に達していた。前途はなお遠く、健康には十分注意しなければならないのだが、猛烈な暑さはますます厳しく、疫病の毒気が野を覆い尽くしている。行路の難儀は極寒の雪原を行くにも増して厳しい。次の日30露里を進んで、午前10時半にシュメン市に入った。ここは、あの行政上の欧亜境界を示す標柱から東で最初の市街で、ヨーロッパロシアから通じる鉄道の最終地点になり、ピシュマ川に面して西部シベリアの起点になっている。ピシュマ川は、オビ・イルチスの二大河につながり、汽船はオビ川を溯ってトムスクに達し、トムスクから別れてイルチス川を上るとオムスクやセミパラチンスクに至るので、汽船で川を下ってこの地に着いた者は、鉄道によってヨーロッパロシアに入ることができる。それで、この市は実に水陸交通の要衝であり、人口は年ごとに増加し、今ではすでに2万人を下らない。ロシアはこの年、飢饉のために貧しい人々が数多くシベリアに移住している。彼等は皆鉄道によってシュメンに着き、さらに2~3輌の荷車を用意し、家族を引き連れて群となり、隊を作ってシベリアに向かう者が次々と続いている。朝夕の涼しいときに車を進め、日中暑さが厳しく人馬ともに疲れると、道端の林の中で休んで馬には野草を食わせ、人は水を汲んで黒パンを食い、夜は薪を拾い火をたいて毒虫を防ぎながら、林間に車を留めて夜を明かし、雨露さえ防ぐことができない。日一日と髪は伸び放題で垢じみ、痩せ衰えた鬼のような姿である。そしてシベリアの奥深くに行こうとする者は皆船便を待つのだが、もとよりわずかの家財道具を売り払って出発した者たちであるので、宿賃すらなくて川岸や埠頭に集まり、老いも若きも抱き合って土の上に横になって日々を過ごし、夜を明かしながら船が出るのを待つのであるが、その様子は哀れと言うほかはない。ロシア正教寺院シュメンは高原平野の中にある町なので、猛烈な暑さを避ける所とてなく、砂埃が高く舞い上がり、環境は極めて悪い。だから、伝染病がひとたび入ってくると、あの貧しくて雨露さえ防げない移住民たちはどのようにしてその脅威から逃れることができようか。中佐がタリッツァでペルム近辺にコレラ患者が出たことを聞いたのは、去る19日のことである、シュメンはペルムから鉄路で265露里離れているが、今日は22日だから、ペルムを出てまだ4日以内である。しかるに、コレラは365露里を3~4日でシュメンに達したのである。中佐が到着した日は患者数が44人に達した。そして彼等は皆死んでしまったのである。伝染病はシベリアへの移住民が持ち込んだものである。このことからも、伝染力の激しさを知ることができる。この町にパ氏の支店があり、支店長は中佐を晩餐に招いてくれた。ペルムから東で初めて入浴し、翌日も滞在した。この日の気温は正午で華氏85度(摂氏29.4度)に達した。

病毒蔓延

シュメンからオムスクまでの636露里即ち169里の間は、広原が遠くまで続き、低い丘が波のようにうねって、樹木は少なく炎天を遮るものなく、焼けるような暑さが人を襲う。中佐は7月5日をもってシュメンを出発した。この日は華氏87度、26日85度、27日84度、28日85度、29日90度、30日94度と、暑さは次第に厳しくなり、まるで火の中を進んでいるようであった。中佐が着ている服はベルリン以来まだ替えたことのない冬服の上に外套まで重ね着しているので、その重さに堪えかねて汗を拭うと湯のようであり、しばしば吐き気をさえ催した。さらに、コレラの蔓延は馬の足よりも速く、シュメンから東では新たな患者が日毎に増え、放置された死体が散乱している。シュメンからオムスクの間169里と言えば東京・姫路間の距離であるが、そのような長い道中で市街と言えるのはヤルトラブスク、イッシュム、チュカリンスクの三市に過ぎない。三市には形ばかりの医師と薬局があるが、遠く離れている寒村や僻地では病気になっても医者にかかることもできず、一服の薬さえ飲むこともできず、ただ伝染病の猛威に身を任すしかないのである。この道中では警察の配置にしても非常にまばらで、しかも配置される警察官が少なく、各村落にはもちろん衛生係のような者もいないので、無知な村民に衛生観念を教える人がいない。ただ、村々の村長や庄屋等が、今は非常事態だと駆け回って大変苦心をするのだが、彼等はもちろん予防策を知らず、撲滅の方法も知らないので、ただ目をかっと見開いてうろうろと走り回っているだけである。そして一般の人々はどうかと思えば、衛生とは何かを理解せず、炎天酷暑の下に身をさらし、猛威を振るう病原菌の中に立って、生の果物や茸の塩漬けなどを食い、野原の汚い水を飲んで、病人と平気で接触する。コレラが何物にも遮られずに蔓延するのも、もっともなことである。唯一彼等がコレラ除けとしているのは、ギリシャ正教の僧侶がキリスト像を描いた旗を持って各家を巡礼し、祈りの言葉を唱えて聖水を与えることに過ぎない。気持ちぐらいは落ち着くだろうが、それでどうして病毒を防げるだろうか。僧侶が祈りの言葉を唱え終わらないうちに、また聖水がまだ乾かないうちに、あちこちに倒れる者が無数に出る。特に気の毒に思うのは、移住していく貧しい人々である。この年、飢饉のために財産を失い、家を売り払って故郷を去り、住む所を探し求めてはるばるシベリアにまで足を踏み入れ、2~3輌の車に家財を積んで、父母や妻子を載せて広原平野をさまよい、炎天に曝され、雨露に打たれ、食べる物もなく、あげくの果てにコレラに襲われて同行の者が皆病み、その上に村々への出入りまで禁じられて休める家さえない。まして薬などないのはもちろんである。痩せ衰えて肉はそげ落ち、息も絶え絶えに荷車の上に横になって死を待つだけの人が道に溢れていた。中佐がシュメンを出てヤルトラブスクに着いた日は、200戸ばかりの小さな町に89名の新たな患者があった。コレラは伝染力が非常に高いので、じかに触れてはいけないと言う。幸いに薬局があったので、用心のためにアヘン剤の小壜を買っておいた。ここの駅舎に入ったところ、すぐに数人の警察官が訪ねてきて中佐を丁重にもてなし、さあ馬を繋いで下さい、さあ秣をやって下さいなどと、懇切丁寧にしてくれるのだが、そのうちにみんな立ち去って一人もいなくなった。わけを聞くと、彼等は日本の少将がやってくると聞いて急に来て世話をしたのだが、少将ではなく少佐と聞いて何もかも放り出して立ち去ったのであった。ただ官位を見て人物を見ないのはどこも同じようなもので、笑い話のようである。ペルムまでは各地方の役人が順に申し送りで世話をしてくれたが、シベリアに入ってからはトボリスク総督の管轄下で特段の命令がなかったので、ペルム以西に比べて便宜を受けることができなかった。日中10時間ほどヤルトラブスクに休憩して再び馬に乗って出発すると、通り過ぎる村落にはコレラの感染者のいない村はなく、感染して死なない者はなく、病勢は激烈にして伝染病の毒気が猛烈に迫ってくるようであった。コレラが蔓延している村々は、村の入口に昼は黒い旗を立て、夜はかがり火を焚いて不吉なことを表し、番人を置いて通行する人に注意を呼びかけ、通行人には村外を迂回させて村の中に入れないようにしている。そういうふうにして交通を遮断しているが、通りがかりの人は村外を迂回しようにも、もともと道のない野原なので、病毒蔓延不案内な者が道に迷わないよういくつも小さな目印の木を立てている。この頃は北国の白夜に近い状態から30日ほど過ぎているので、夜の暗い時間がようやく多くなっていたが、中佐は夜遅くコレラ蔓延でかがり火を焚いた村の外れに至り、それとは知らずに村内に入ろうとして番人に叱られ、村外の野道を迂回しようとして暗闇の中で目印の木を見つけることができず、広い平野の中でさまよい、行きつ戻りつして、もう村外れに来たと思って、思いがけなく村の真ん中に出てしまい、番人から大声で叱られて思わず腹を抱えて笑ってしまったこともあった。ロシアの農家は貧しくて、夜間明かりを灯す者もなく、村々に灯を見ることは稀なのだが、コレラ患者の家や死者の家は看護や葬式のために火を灯しているので、深夜、村外に至って遠く灯火の数を見てコレラ患者の数を予測したのである。

シベリア鉄道

シュメンを出発してから7日目の7月31日、300露里進んでイッシュムに着いた。まず警察署を訪れて旅館の場所を聞く。一人の巡査が旅館まで案内してくれたが、見るとみすぼらしく不潔なことこの上もなく、貧しい群集がたむろしてコレラの巣窟に近い。コレラその時ふとパクレフスキー氏の添書を思い出してその不潔な旅館を立ち去り、パ氏の支店に行って宿泊を願い出たところ、非常に優遇して迎えてくれた。結局翌日も滞在して人馬ともに休息することができた。中佐はパ氏の添書を数通貰っていたが、なるべく厄介をかけまいと思い、特にそれを使ったことがないのだが、この日はやむを得ず宿泊を願い出て快く歓待されたのだった。イッシュム市は広原の上にあって小さな川に臨み、市内の水はどこも濁って臭く、飲むことは出来ない。この地はシベリア鉄道の路線上にあたり、西方のサマラやウーハを経由してウラルを越え、チェヤビンスクを過ぎて、ここイッシュムを通る計画であり、工事はこの時すでにレールをクルガンに敷設し終わったところなので、来年はきっとこの地イッシュムにまで至り、再来年にはオムスクに達するようである。イッシュムは人口八千に過ぎないが、数日前にコレラが初めて発生して以来、既に145人の患者が出たという。このことからもコレラの恐ろしさを知ることができる。パ氏支店長の奥さんは中佐の旅行を大変心配し、「ここからは東へ行けば行くほどコレラが蔓延していると聞きます。万一あなたが感染するようなことがあったら大変です。ここからはわき道を抜けてお行きなさい」と中佐に勧めたのだが、中佐は、コレラの伝染力は天馬が空を駈けるように一瞬のうちに百里を進む。いつどこで流行するかは分からない。昨日までは流行していなくても今日はすでに毒気が一面に立ちこめるような勢いであるので、コレラを恐れてとった行動によって逆にコレラに罹って死ぬようなことになれば、日本人の不名誉だと心を決めた。ただ命を天に任せて本道を行くことにし、支店長と奥さんの厚意に対して丁寧に感謝して、8月20日の午後8時半にイッシュムを出発した。

急病人

イッシュム市を出ると森林がある。樹木は鬱蒼と茂り、鮮やかな緑が何とも言えず味わい深い。林を出て一つの村を通り過ぎ、小川に架かった橋を渡って、遠くのかなたを凝視すると、この辺りの野原は広々として限りがなく、沼地もあちこちにあって新鮮な草が豊富にあり、青々とした草原の彼方は白く霞み、放牧された家畜の群がここかしこに眠っている。みんなこの辺りの村人の牧場なのであろう。とある小さな村に入って民家で休憩し、庭に停めてある荷車に馬を繋いで秣を与えた。そして、その民家の主に、この村にもコレラ患者はいるのかと聞くと、とても多いと言う。この家には病人はいないのかと問うと、今日も一人死んで、たった今野辺送りをして帰ったところです。あなたの馬を繋いでいるあの荷車こそ、死人を運んだ車なのですと言う。そのうちにサモワールを出してきたので、茶を飲んで黒パンを食べ、再び夜間の騎行に出発するのであった。明け方イッシュムから44露里進み、次の日の午前3時半、夜がほのぼのと明けてくる頃、ツシュノロドバ村の駅舎に着いた。馬を繋いで秣などを与え、茶やパンを食べて、この日は午後6時までここで休息した。この村はコレラが猛威を奮い、戸数およそ50戸ほどであるが、この日の新しい感染者は12人に及んだと言う。部屋から見渡すと、駅舎の前は墓地なのであった。新しい十字架が林立し、新しい土饅頭がどこまでも続いている。病死者の棺を車に載せ、妻子なのであろうか、棺にもたれかかって泣きながら墓地をめざして行くのさえ見えた。 その時、駅舎の女房が駈けてきて、病人が出たと言うので中佐が起き出して見ると、乗馬ウラルを繋いだ傍で先ほどから仕事をしていた89才の男が嘔吐して倒れ伏している。その様子からコレラに間違いない。中佐は自分の休憩している部屋の隣にその男を運び入れるように命じ、持っていた薬を与えたけれども、症状がかなり進んでいるので助かるようにも思えない。この様子を見ていた駅舎の主は気分が悪くなり、そのまま感染するのではないかと思えるほどに倒れ込んでしまった。それで、彼にも薬を与えた。そうして、馬に餌を与えようと庭に出てみると、あの感染者が嘔吐したものは犬が来て食い尽くし、その跡にまた別の男が来て仕事をしている。病毒をも恐れない無知の人々であれば、伝染病が次々に感染し蔓延するのももっともなことである。中佐とて生身の人であり、鉄や石の身体ではない。コレラ予防のために、過度の労働や酷暑の炎熱を避けて、消化しやすい物を食べ、よく眠ることを心がけないわけではなかったが、きわめて遠い長旅の途中であり、予防法のうちの一つさえ実行することはできなかった。そして、中佐の行く所や立ち寄る所にコレラ患者がいないところはなく、身体は常にコレラに汚染された空気の中にあって、感染者に直に接すること以上に危険な状況であったが、遂に感染することはなかった。見事に生き延びて偉業を達成することができたのもおそらく身体の強健さによるものと思うが、また天の恵みのおかげだったとも言わなけらばならない。

危機一髪

こうして、この日の午後6時半にツシュノロドバを出立し、かなり進んでさびれた村に着いた。しばし休憩して、道案内人を一人雇って出発した。此の辺りの道路は、夜間は特に迷いやすいからである。やがて、イッシュム川に架けた橋を渡る。行路は低い所を通っているため、小さな谷川がいくつも交叉しており、固まった泥が凹凸をつくり、あたりは年を経た大木や高い樹木がなく、ただ背の低い木が路傍に生い茂っているだけである。夜は既に深けて、夜気は涼しく衣服も軽快に感じ、周囲を見渡すと草木は動かず、辺りは広々として静寂そのもので、ただ星の光が煌々とまたたき、虫の声が聞こえるのみである。中佐は、伝染病が蔓延する危険な村を過ぎてこの清らかな地域に至ったことを喜びつつ、馬と共にほっとして行くこと12露里、ふと気がつくと道案内人の姿が見えなくなっていた。彼はこの夜気の快さを理解せず、あまりの寂しさに耐えられなくなって逃げ去ったのであった。地図の記憶によれば、馬首を南に向けなければならなかったのだが、馬を止めて空を仰いで北極星の方角を確認すると、東に向かっているようである。しかも、オムスクとトボルクスとの分岐路がある所なので、もしかすると夜道に迷ってトボルクスへの道をとってしまったのかも知れないと思い、地図を見ようとしたのだが、暗がりのことでよく分からず、電柱を見つけて電線の数で判断しようと思ったが、堅い泥や深い溝がいたる所で道を遮っていて近づくことが出来ない。夜道自分のとった道を疑ったり迷ったりしながら2~3露里進んでようやく電柱の下に至ることができた。ふり仰いで星明かりの下で電線を数えると、かすかに4本の線を確認した。シュメン以東シベリアへの電線は皆4本線であるので、道に迷ったのではなかったのだと安堵して、馬に鞭をあてて進んで行く。やがて、前方に一村落が見えてきた。あの村に着いたらしばらく休憩しようと思い、そのまま馬に鞭をあてて進み、ようやく村らしき所に近づいてみると、何ということ、それは村ではなく、丘の下にある小さな森なのであった。森の木々が星明かりに反射して、茅葺き屋根のように見えたのであって、中佐は自らの勘違いを大笑いしたのであった。森を過ぎてもうすぐ丘に上ろうとしていた時、乗馬が嘶きを止めなくなった。ひと鞭あてて丘を上りきると、一台の駅馬車が停まっていた。その御者は車上から短銃を構えて、今まさに発射しようとしていたのである。中佐が近づくと、御者は中佐の軍服を見てようやく銃を収めたのであった。おそらく、乗馬はもの寂しい深夜に車輪の音や蹄の音を聞いて喜んで嘶き、御者は深夜の森の中で馬の嘶きを聞いて山賊の襲撃かもしれないと誤解して、銃を構えたのだろう。中佐は御者を一瞥し、微笑しながら通り過ぎたのであった。

湿地難渋

そうこうするうちに、また別の村を前方に確認した。本道を迂廻して、遠くに見える畦道をたどって行けば極めて近い。中佐は畦道をとって進んだが、そのうちに溝に突き当たった。湿地目をこらして見ると、溝の泥の上に馬の蹄の跡が残っている。極めて浅いように見えたので、これくらいのことと思って馬に一鞭あてて乗り入れたところ、泥が思いの外深く、馬は足をとられてあせれども動かず、どうにも動けずに泥の中で立ち往生してしまった。しかたなく下馬して泥の中を歩き、ようやく前方の土手に飛び移り、片手に手綱を持ちもう一方の手で鞭をつかんで、えいっと声をかけながら鞭打つと、馬はたちまち前の土手に飛び上がった。飛び上がったはずみに手綱の元がちぎれて、手綱からはずれた馬は土手の上をうろうろしながら草を食う様子である。中佐はそっと馬に近づき、ちぎれた革紐を結ぼうとしたところ、本道の方で他の馬がいななく声を聞きつけて、中佐の馬はその方めざして駈けだしてしまった。中佐は驚いて追いかけたが、ウラルは移住民の車列の中に割って入り、一頭の牝馬に跳びかかった。数人の農夫がそれっと車を飛び下りてようやくウラルを引き離したところへ中佐が駆けつけてみると、この荷車の一隊は移住民であり、車は皆コレラ患者を満載していた。こうして馬に手綱をつけることができたので、農夫たちに厚く礼を述べて薬を患者に与え、さらに3ルーブルのお金を渡して立ち去り、ようやく先ほど見た村に着いたのだが、ここもコレラの巣窟であり、村内に入ることが出来なかった。再び疲れた馬に鞭打って村外を迂回し、午前6時半にオルロバ村に着いたのだった。この日の夜行は12時間で70露里半であった。

清浄の地

疫病地域を脱す

疫病地域を脱すオルロバ村の駅舎に入って聞くと、コレラ患者がいないことはないが、幸いに多くはないと言う。昼間睡眠をとって午後8時に出発した。村のアタマンが道案内に同行してくれた。20露里進んだ所に寒村があった。村の入口の柵に馬を繋いでしばらく休憩し、再び進んでその夜12時にクルトエの駅舎に入った。この辺の村々にもコレラ患者がいて、村外を迂回しなければならなかったが、夜は道に迷いやすいので道案内人を探したのだがだれも来ない。午前2時に出発して村外の道をたどって午前5時半にカルマコバという小さな村に着くと、ここは全くコレラ患者がいなかった。中佐の馬はここに至ってコレラの広がる速度に打ち勝ったのである。駅舎は汚くて小さく、シラミが多かったけれど、コレラ感染の虞がないと聞いて気持ちがなんとなくすがすがしく、例のお茶とパンのほかに鶏肉さえ手に入れることが出来て、久しぶりのスープを飲んで満足し、しかも農家の風呂を借りて入浴することさえできたのだった。振り返れば、中佐はシュメンを出てから14日473露里の間、コレラの中に身を置いていたのであるが、今日は病気の報告を聞かない所に至って、風呂にも入って全身の病原菌を洗い流したような心地になったのももっともなことである。

約束を守らず

この日午後7時にカルマコバ村を出発し、平原荒野の中を放吟しながら馬を進め、午後10時半にチュカリンスクに着いた。この町は平原の上にあり、市とは名ばかりで人家も少なく、ただ一つの監獄があるのみで、これを守る兵を置いて隊長として大佐がいるだけである。ちょうど天気の悪い日で夜の暗いところに街灯がないので、道行く人も早々にいなくなり、駅舎の場所を尋ねようにもその術もなく、川に沿ってうろうろとさまよい歩き、夜回りの男に尋ね、車を引いた農夫に問いなどして同じ所を行ったり来たりしながら、ようやく郵便局の案内によって駅舎に入ることができた。この頃はようやくロシア国内の旅行にも慣れ、お茶や黒パンを立派な御馳走と思い、木の長椅子をこの上もないベッドと思い、シラミさえ忘れて安眠することができたが、この夜は76露里を進んで夜はすでにとっぷりと暮れ、烏麦を手に入れることが出来なかったので、馬には秣だけを与えて明朝まで我慢させた。翌日、巡査が来て道案内が必要かと聞く。夜が更けてから宿駅に到達するには道案内があることがよいと思ったので斡旋を頼んだところ、何時に出発されるのかと聞く。午後6時だと答えたところ、それではその時刻に道案内を一人つけましょうと言って立ち去った。約束の時刻となって中佐が出発の準備をして待っていたのだが、約束の嚮導は一向に現れない。巡査の所に人を遣って、嚮導はいつ来るのかと尋ねさせると、しばらくお待ちなさいとのこと。約束同じ駅舎にオムスクからトホジスクに向かう二人のロシア紳士がいた。中佐が出発しようとして時間を気にしているのを見て、なぜ出発されないのかと聞いてきた。中佐がこれこれで嚮導を待っているのだと答えると、二人の紳士は大笑いして、この辺では約束の時間などあってないようなものだよと語った。旅人には不都合な風習であることだよ。

旅情

高原このようにして高原の上を進んだ。高原上には幾つか小さな池があるが人家は全くない。25露里進んで、午後10時半にアンドロンニカ駅に到着した。1時間ほど休憩してチュカリンスクの嚮導を帰し、単騎で進んだ。すでに夜は更けて辺りは暗く近くの物でさえ定かには見えない。駅の木戸は堅く閉ざされ、中佐が番人を呼んでも、片言のロシア語を馬鹿にして小屋の外へ出てこようともしない。中佐がすぐに戸を開けないと警察官に報告して処分するぞと一喝すると、ようやくぶつぶつ言いながら小屋を出て木戸を開けたのだった。夜通し馬を走らせ、翌日午前4時半にベキセブスカヤ駅に入った。この駅舎の長は他の所に転任するため明朝出発することになっており、チュカリンスクの郵便電信局長夫妻が送別のためにここに来ており、別れの宴を駅舎で開いたのだが、光栄にも中佐もその宴に列席することができたのである。この光栄な宴席の食卓は、不潔な台の上に垢じみた白布を敷いて飾り、欠けた皿や曲がったナイフやフォークがその上に置いてある。料理は鶏肉のスープ、焼いた鶏肉、煮た鶏肉の三種類である。野菜は少しばかりのジャガイモがあるだけであるが、形はどうであれ旅路に親切を受けることほど嬉しいことはないので、中佐も膝を交えて談笑し、旅情を慰めたのであった。この時の話では、郵便局長の月給は50ルーブル、次長で30ルーブル、駅長は20ルーブルであるとのことだった。この駅には秣があったが、烏麦を求めることは出来なかった、黒パン10斤を買って馬に与えたのだった。

江山絶勝

この日、夕日が傾くのを待って、午後6時に出発したが、昼間の暑さがまだかなり残っていて思うように騎行できず、ゆっくりと進んで8露里と書いてある標柱が道端に立っている所に至ると、道が二つに分かれている。左は旧道で電信柱があり、右は果てしなく広がる草原の中を新しい道が貫いている。この道は直接オムスクの近くにつながっており、汽船に乗ることができるので大抵の旅人はこの道をとった。中佐もこの新しい道を進んだ。標柱から30露里の間は見渡すかぎりの野原であり、樹木もなく人家もなく、真っ平らな草原が地平のかなたまで続いている。時あたかも空は晴れ渡って、明るい月の光に照らされた野草の露が白く輝き、周囲は何とも言えずすばらしい景色であった。しかし、蚊が多いのがとても煩わしく、蚊を追い払いながら馬に鞭打って坂を下り、左の方に池を見ながらようやくザミラドバ駅に着いた。時刻は午後10時半になっており、この夜は58露里を進んだのであった。ザミラドバの驛舎はまれに見る清潔な所で、主人も大変親切だった。この頃は夜行が続き馬もひどく疲れていたので、翌朝の騎行を休んで一日中休息して午後7時に出発した。ザミラドバ駅を出ると道はそのまま森林に入っている。森林とはいうものの連続したものではなく、点在する森の間が道路となっており、平坦で蚊もいないので夜間の騎行にはうってつけであった。森を出ると中佐の馬は、とある小高い丘の上に立った。30mほど眼下には名高いイルチス川の清流が見える。向こう岸は森林が断続して続き、川の流れは森の間を縫ってうねうねと曲がり、まるで白い蛇が走っているかのようである。時あたかも夕日はすでに沈んで残照も全て消え、丸い月が東方の山に昇ってイルチス川の清流に影を落とし、黒々とした山々と白く輝く水が恐ろしいまでに静かで荒涼とした対比を見せている。江山絶勝この山と川の夜景は絵にも描けないほどであると思いながら、中佐は馬をその場に留めて長い間立ち去ることができなかった。この地はニヂェノブゴロド以東で第一の景勝地であるとのことである。丘を下り、右岸の小村で休憩して、再び馬に鞭打って川を左に見ながら右に折れてメリニチュヌイ駅に着き、しばらく休息した後、午前2時半に東に向かって平野の中を騎行すること20里にして初めてイルチス川に至った。ここに来て初めて帳幕で生活する民族を見た。これがキルギスの人々である。川の向こうに大きな建物がそびえ立つところがオムスクであった。中佐は騎乗したまま大自然の中にたたずみ、13世紀の初めにジンギスカンが馬に水を飲ませたのはこの辺りだったのではないかと思い、こみ上げてくる気持ちの高ぶりを抑えることができなかった。ところで、オムスクの総督はどのようにして中佐の到着を知ったのだろうか、すでに渡し場の巡査は中佐を渡すよう命令を受けていたのである。向こう岸には警部巡査がずっと中佐を待っていて、すぐに中佐を旅館に案内したのだが、間もなくガビエフという文官が来て中佐を接待した。彼は支那語に通じていたので中佐の接待係を命じられていたのである。

西シベリア

オムスク

オムスクの人口は約3万であり、遠くから市街を望むと、大きな建物が林立してその壮大さは人の目を驚かすに十分であるが、オムスク市内に入ってよく見ると大きな建物の横には小さな家があり、立派な楼閣の隣にはみすぼらしい建物があるなど、不統一な街並みがたいそう奇異な景観として目に映る。しかも壮大な建築も2、3の他はみな木造である。おそらくオムスクは軍事面の重要地点であって、通商面の要地ではないのだろう。そのため、天を突くような壮麗な建物はみんな公的なもので、民家はみすぼらしくて小さく、見るに値しない。そんなわけで、人々はこの町を役人町と呼んでいるらしい。その中で最も重要な建物はシベリア陸軍幼年学校広原総督の官舎である。高原の上から眺めると、周囲に樹木はなく街路は土ぼこりが舞い、荒涼としている。そんなわけで、病院の患者には眼病が最も多いと聞く。ただし、イルチス川の左岸にあるこの町は、シュメン・トボルスク・トムスク・セミパラチンスクなどの要地と汽船による交通の便があり、しかもシベリア鉄道は数年以内にこの町を通過する予定である。更に、既にサマルカンドに到達している中央アジア鉄道が更に北進してセミパラチンスクを経由し、そう遠くないうちにこの町でシベリア鉄道と連結するであろうから、いずれこのオムスクが西部シベリア第一の重要地点になるであろうことは疑いようもないことである。

高原総督

オムスク2オムスクに着いた日は一日休息し、翌8月8日の朝に高原三州軍務総督を訪問した。総督は陸軍騎兵大将のタウベ男爵である。年齢は60才ぐらいで温厚な人である。先日セントピータースブルクの報道であなたの到着をずっと待っていたのだと言ってここに至るまでの旅の様子を尋ね、この先の予定を尋ねるのである。そしてすぐに中佐を夫人に紹介し、翌日の晩餐に招待することを約束し、これから先の旅が便利になるよう出来る限りのことをしようと話すなど、待遇はとても親切であった。そもそも高原三州とは、アクモリンスク、セミパラチンスク、セミレチンスクの三州であり、その管轄区域は天山から北方のアルタイ山までの清国との国境に連なり、イリー及びタジバハタイにおけるロシア国領事を指揮し、西部シベリアに駐留する1万人余りの将兵を統率し、300万人余りのキルギス遊牧民を統治するものであって、その責任は重大なものである。

兵備多数

オムスク3この日の午後、高原軍務総督の命令書を携えて予備歩兵大隊の野営地を訪れた。この歩兵大隊は西部シベリアを守る三つの予備歩兵大隊の一つである。シベリアのロシア軍の数は広く知れ渡っている通りで今更記す必要もないようだが、中佐の進路は次第に清国の国境に近づいており、見たり調べたりしたことを記録するにあたり、ここでその兵備の大きさを示すことも無意味なことではない。そもそもシベリアは軍事的には東部と西部に分けられる。東部はアムール地方とイルクーツク地方であり、平時で約3万の兵が駐留している。西部は高原三州総督の管轄する地方で、平時約1万の兵がいる。南方の西部シベリアに接するロシア領トルキスタンには平時で約3万9千の兵を留めている。合計約7万9千人、これがロシアのペルシャ、アフガニスタン、及び清国の新疆、イリー、外蒙古満州国境に対する兵備である。全シベリアの面積は日本の32倍あり、人口は日本の8分の1である。ああ、この広大な大地と比べると人間とは何と小さな存在であることよ。だが、そのちっぽけな人間が、ユーラシア大陸を単騎で横断するという遠大な計画で世界を興奮させたのだ。

幼年学校

オムスク4予備歩兵大隊野営地の北隣は陸軍幼年学校生徒の野営地である。中佐は歩兵の訓練を観覧した後、幼年学校野営地を訪れた。これはシベリアで唯一の幼年学校であり、シベリア各地からここに来て入学している。生徒の数は約500人、最も年少は11、2才の少年で、最も遠い者はハバロフカニコライフスク等から来た者である。11、2才の少年が軍事の基礎を学ぼうとすれば、八千露里(二千里)の山河を越えて来なければならない。これを日本にあてはめて、例えば沖縄や千島から東京に遊学するとしても、シベリアの場合の半分の距離にも満たない。我が国の少年教育はこのように便利なのである。ゆえに、シベリアの5倍の教育効果を上げなければならない。この日、新入学の生徒が24人あり、その内の一人はかわいそうに下痢に苦しんでいたのだが、ちょうどこの頃はコレラ流行の時であったので、一人だけ仲間から隔離されて他の一室に入れられていた。父母から離れて遠くまでやってきたのに、病気のために仲間と別れることになっては、いかに心細いことであったろう。オムスクにもコレラ患者はいたが、わずか4~5人に過ぎなかった。

南に向かう

中佐はここで3日間滞在して馬を休め、8月12日の午後5時にオムスクを出発した。オムスク5ここで初めてシベリア街道から別れて南へ向かい、セミパラチンスク街道に入った。ここまでは世の人々は中佐を風変わりな冒険旅行者と見て、東へ一直線にウラジオストックをめざすものと思っていたのだが、オムスクから馬首を南に向け、非常な遠回りをして国境の重要地点を過ぎるのを見て、単なる好奇心だけの旅行ではないことを知り、間もなくその目的に関するいろんな批評がわき起こった。さて、高原軍務総督は、その管轄区域で中佐が通る予定のアクモリンスクとセミパラチンスク二州の知事に対して、中佐が円滑に通過できるよう便宜を計らうべしとの命令を発し、さらに中佐の通過する地域の地方官とコサックアタマンやキルギス族の酋長に向けて中佐に対して適切な支援をするように書いた命令書を中佐に渡し、出発の日は警察官や部下の兵士を同行して中佐を見送った。この頃になると気候は急速に移って秋の肌寒さが増し、しかもオムスクからセミパラチンスクまでの19日間は一日も晴天がなく、空はいつもどんよりと曇り、しばしばにわか雨に遭い、時には暴風雨で冷気が急に増したため夜行を止め、残暑がぶりかえした日だけ昼間に長く休憩を取るようにした。

道路地形

オムスク6オムスク、セミパラチンスク間の道路はシベリア本道とは違って野原の中を貫き、野と道の区別はつきにくく、ただ電信柱に沿ってかすかに一条の野道を判別できるだけである。道の傍には所々に木を籠のように丸く編んで高さ1mほどの垣のようなものを立てている。並木を植え付けて旅人が立ち寄る陰をつくるのかと見ると、植木でもない。人に聞くと、冬になると雪はそれほど深くはないが、暴風雪が顔を打ち、近くさえもはっきりと分からなくなるので、このような標識を立てて吹雪の時の目印とするものであると答えた。本当にこの辺りは見渡す限り広々とした荒野が広がり、高低起伏がない。周辺の平野で目にするものは草だけで樹木というものが全くない。このように果てしない荒野であるから、普段でも道に迷いやすいので、吹雪の時などはいかばかりであろうか。この荒れ果てた平原の中には、新鮮な草を求めて遊牧するキルギス人たちの帳幕が、傾いた夕日に照らされた草原の中に点在しているのであった。

コサック村

オムスクからセミパラチンスクに至る727露里(日本の93里)の間、遊牧民の帳幕の他には人里とも言うべきは、イルチス川に沿いに20ないし30露里から40~50露里毎に散在するコサック兵の軍営があるだけである。仮にこれをコサック村と呼ぶことにする。その村の戸数は、15~6戸から30~40戸に過ぎず、これは皆国境防衛のために屯田する者であり、これらを西部シベリアコサック兵と呼んでいる。服装は、帽子や肩章、腹帯やズボンの線に赤色を用いており、バイカルやアムールのコサック兵の黄色と区別している。各村にはアタマン(コサック村長)がいる。中佐が通過する所に村落がない場合、いつもこのようなコサック村に泊まっていたが、すでに軍務総督の命令があったため、沿道の村々は中佐の到着を首を長くして待ち、中佐が村に近づくと、アタマンは正服に着替えて指揮杖を持ち、村の外で出迎えて用意していた小屋に案内するなど、下にも置かない歓待ぶりであった。そもそもアタマンは、下士官の中で読み書き計算ができて才覚のある者が選挙で選ばれ、任期は3年である。もしアタマンに選ばれても、任務がこなせない者は3年を待たずして罷免される一方、才能があって仕事ができる者は再選されることもある。中には数村の長を兼ねる大アタマンもいる。我が国の大庄屋のようなものである。アタマンの指揮杖の頭の部分は銀で作られ、鷲の紋章と文字が彫られている。杖の部分は朱塗りで、大アタマンの杖には頭の鷲章の上に銀で作った小さな玉が付けられており、交代の時には後任者に譲り渡されるという。これはおそらく我が国において部下を統率するしるしとして將軍が携える斧鉞の部類なのであろう。各コサック村は全て西部騎兵連隊に属するので、中佐の騎行を聞いて心を動かされることが少なくなかったのであろう、老若男女が戸外で出迎えたり、野良着を脱いで晴れ着に着替えて道端で中佐に敬意を表す若者がいたりした。村々を過ぎる時にはいたる所に待っている1~2騎のコサックに次の宿まで送られるのだが、兵卒は普段は制帽を被り野良着を着ているのに、村長自らが見送りのために指名して兵を呼ぶと直ちに正服に着替えて随伴したのであった。コサック村そういうことからすると、平時の服装は自由なのであろう。家屋は丸太を組んだロシア風の農家と同じであり、生活の様子は、他の民族に比べて貧富の差が少なく、大金持ちもいないかわりに極端に貧しい者もいないようである。馬の体格はやや小さく、地味は肥えているが烏麦に乏しいため、肥え太った大型馬を見ることはなかった。

中央アジア

再び乗馬を買う

8月19日、ブリエスナヤ駅に至る。オムスクから324露里である。これ以前、中佐の乗馬ウラルは凶暴で気性が荒く、長旅には不向きな馬であることがわかりつつも、足が続く間はと思って乗り続けてきたのだが、ウラルはイナホジツという性質で、左右の足を前後同時に動かして歩くクセがあった。4本の足を交互に動かして歩く馬とは異なり、左は左だけ右は右のみを同時に動かすので、走るときは足を動かす毎に右に左に体が傾斜して乗り心地が悪く、鞍擦の虞もあった。ウラルの背中にはすでに二箇所の傷があったが、ウラル山を越えた頃から遂に鞍擦れを起こし、日が経つにつれて騎行が難しくなり、この4~5日は日増しに疲れ果て、乗馬の用を果たさなくなっていた。しかし、せめてセミパラチンスクまでは乗り続けたいと思い、歩みを落として静かに進ませたのだが、ウラルの足は次第に弱り、ブリエスナヤに着いたころには打ち捨てておくか乘換えの馬を買うかの選択を迫られる事態になっていた。しかたなく臨時馬を買うことを決め、駅の近辺にはキルギス人の牧場がたくさんあったので、馬を買いたい旨を村長に相談したところ、村長は幸いにもキルギス人酋長に知り合いがあり、一緒に行って酋長に会おうと言う。それで、一台の農用馬車を雇って一緒に行くことおよそ10露里で酋長の帳幕に着いた。その時酋長は不在で、たくさんのキルギス人たちが、いい客が来たとばかりに、馬数十頭を牧場から牽いてきて順番に中佐に見せるのであったが、いずれも中佐が望むような馬ではなかった。コサック馬その頃までに酋長が帰ってきて、中佐が馬を買いたがっていることを知り、私に愛馬がいる。よければその一頭を選べと言って数頭を引き出させてきた。中佐が思うには、一瞥しただけで馬の性質と駿馬か否かを判別することは難しく、旅の途中であればそれを試すことも出来ないが、遊牧民は馬と寝起きを共にし馬と一生を過ごして馬の性質をよく知っており、また人を欺くはずもないから、彼等に選ばせるに越したことはない、と。そこで、旅の途中で馬を買うことの難しさを告げ、あなたを信ずるから私のためにこの遠征を成功させるための馬を選んでくれと言ったところ、酋長は栗毛の馬2頭を指して、この馬は兄弟で双方とも強健であり、しばしばパブロダールに往復しているがこれまで疲れた様子を見せたことがない。どちらか一頭を取れと言う。そこでその1頭を選んで値段を問うと、彼はもじもじとしてなかなか言おうとしない。中佐がはっきり言えと迫ったところ、しばらくして100ルーブルだと言う。この辺りの馬はもちろん100ルーブルもするはずがない。それは余りに高すぎると言うと、それではあなたが値段をお決めなさいと言うから、75ルーブルと決めて買い取った。その後、酋長は帳幕に来てお茶でも飲んで行くよう中佐を誘った。

幕中に小憩す

そこで、中佐は村長と一緒に酋長の帳幕に入った。酋長の帳幕は三張ある。倉庫用帳幕と従僕の居住用帳幕、そして酋長の宮殿である。キルギステントその帳幕の下には木を籠状にくみ上げ、その上から曲がった柱を幾つも立てて丸く天井を作り、頂上には円形の輪があってここに柱を集めてその上に幕を張っている。帳幕の直径は5間(約9m)ほどである。中に入って見ると、草の上に駱駝の毛皮を敷き、その上に更に中央アジア近辺で作っている精巧な絨毯を敷いてある。ここは来客を接待する場所であるらしい。彼等は通常は坐って生活しているが、酋長はロシアの役人などとの交際もあるからだろうか、帳幕内には2脚の椅子を置き、帳幕の隅には無数の箱もある。どんな物が入れてあるのだろう。中央には囲炉裏がある。この高原には所々に粗末ながらも木と土で作った家もある。キルギス人は昔も今も新鮮な牧草を追って生活しているが、他の遊牧民とはやや生活が異なり、冬期はその粗末な家に住み、気候が穏やかになって草が芽生える頃になると家を出て帳幕を張り、牧草を追って牧畜に従事する、それゆえ、その帳幕も他の遊牧民に比べれば決して不潔ではない。さらに、今は既にロシアの支配下にあって、その文明の影響も受けている、特に帳幕の附近にはロシアの商人が住んでいるため、彼等の贅沢な生活を遊牧民も知っており、金銀細工の家具までも所有しているらしい。酋長は胸にボタンのついた長い衣服を着用しているが、その胸や袖は金色の縁取りで飾られており、勲章も身につけている。これは、ロシア帝国皇太子が先年シベリアを巡遊した際に記念に授与されたものであるとのことだった。酋長の妻もまた、白衣白帽を身につけて帳幕内にいた。夫人の白衣白帽は彼等の伝統的な風俗である、妻はまず馬乳を椀に酌んで持ってきたが、馬乳は牛乳と違ってその量が少なく、もともと貴重なものであるけれども、まことに酸味を帯びて飲みにくいものである。中佐が飲みにくそうにしているのを見て、村長は自分が飲むと言って全て飲み干してしまった。菓子と茶を出されたが、茶菓はみなロシア風のものだったので、おいしくいただいた。酋長が、今夜は羊をさばいて御馳走しようと思うので、ぜひここで一泊してほしいと言ったけれども、旅の用意があるからと丁重に断ってブリエスナヤに帰り、明日からは二頭の馬を交代で乗ろうと考えて、新馬をウラルのそばに繋ぎ、スープで夕食を済ませて眠りに就いた。

深夜馬を逸す

中佐が眠りについていくらもしないうちに、庭先に人々がたくさん集まってきて罵り騒ぎ出した。何事かと不審に思って飛び起き、灯りをつけて部屋を出て、外に立っている主人に向かって事の次第を聞くと、主人は眉をひそめ眼を丸くして、馬がいなくなったのですと言って、ひどく番人を叱っているのであった。この番人は60歳ぐらいの老コサックを用心のために村長が雇ってウラルの番をさせていたものである。中佐が、いつどのようにして飛び出したのかと問うと、老番人は声を震わして、そのことですが先ほどウラルに水を与えようとして繋いでいた綱を解くや否や、一声嘶いてそばに繋いでいた新馬を蹴りながら庭の中を暴れ回るので、あわてて捕まえようとしたとき、馬は門のそばに少し隙間のあるのを見つけて扉を蹴り開けてまっしぐらに駆けだしたまま、どこへ行ったのか影も形も見えないのですと言う。暴れ馬ウラルとにかく、村長を呼べと言って使いをやって、やがて村長がやってきた。事情を聞いて村長は主人とともに老番人の不注意をひどく責め、かつ罵り叱るのだが、中佐が押しとどめて、そのようにお叱りなさるな、過ちなればしかたないでしょう、とにかく村中を探すにこしたことはないでしょうと言って、分担して探そうとしていたとき、一人の農夫が一頭の馬を牽いて庭の中に入ってきた。見ればウラルであった。どこで捕らえたのかと農夫に聞くと、夜深けに我が厩で嘶き騒ぐ声がするので出て見れば、見慣れない大型の馬が来て私の牝馬に挑んでいたので駆け寄って引き離したのですが、この辺では見ない馬でした。今夜この村の客人はあなただけですし、中佐が大きな馬に乗って来られたと聞いていましたので、きっとあなたの馬に違いないと思って連れてきたのです、と言う。中佐は厚く礼を述べて農夫を帰し、老番人をなだめて翌朝までの注意を命じ、人々にも礼を述べて再び眠りに就いたのだった。さてつくづく思うに、ウラルは長旅で疲れている上にこのように凶暴であるので、所詮新馬に乗って片手にウラルを牽いて行けるはずもなく、かといってウラルに乗って新馬を牽くことはしたくないし、ウラルを捨てて新馬だけに乗るとすれば、これまで長旅をしたことのない新馬はすぐに疲れ果てるだろう。こうなっては仕方がない、もう一頭新馬を買おうと心に決め、ようやく眠りに就いたのだった。

再び馬と別れる

翌朝(8月20日)村長を招いて、ウラルはあなたにあげるので、もう一度酋長の牧場に行って馬を一頭買ってきてほしいと頼んだところ、村長は非常に喜んですぐに馬に乗って牧場に行き、一頭の牝馬を買ってすぐに帰ってきた。値段を聞くとわずか30ルーブルである。昨日は100ルーブルと言い、今日は30ルーブルと言う。酋長も正直者ではなかったのだ。村長は馬を手に入れてこの上もなく嬉しかったのだろう、記念としてコサック風の鞍を中佐に贈った。ところでウラルは凶暴な性質で、旅の途中では中佐に非常な困難を与えた馬だったけれども、93日の間雷雨や炎暑酷熱に耐え、孤独な夜間騎行の苦難を共にして森林荒野の中を一緒に2885露里も歩んだのである。どうして多少の情がないことがあろうか。特に、通過してきた土地では烏麦が乏しいために黒パンを餌としたのだが、最初のうちこそ嫌がっていたものの、それしか食べるものがなく、ついには好んで食べるようになったのだった。ウラル途中で休憩しようとして道端の樹木や村の入口の柵などに繋ぐときには、暴れないように先にポケットから黒パンを取り出して与えてから繋いだものだが、馬も味を覚えて、中佐が途中で下馬した時には鼻を鳴らして口を中佐の方に向けて黒パンを欲しがるような仕草をしたものだった。すり寄ってくる犬は打たれないというが、凶暴な馬とは言えこのように次第に慣れ親しんだ今となっては愛情が日毎に増さってきていたのだが、今ここに永遠に別れなければならないことになり、涙を流すまいと思うけれども涙をこらえることができない。中佐は別れに臨んでポケットから一片の黒パンを取り出してウラルに与え、その首を撫でて過ぎ去った日の苦労を慰め、記念のためにたてがみから数本の毛を切り取って別れを告げたのであった。

薬を求めて得ず

ウラルと別れた後、村長にも暇を告げて、この日(8月20日)午前11時をもって一頭の馬に跨がり、もう一頭を牽いて出発した。しばらく進んで小さな村で日中の6時間ほどを休憩して過ごしたが、この民家にも二人のコレラ患者がいた。午後10時半にチェルノヤスルカヤ村に着いた。この日の行程は41露里であった。この夜民家に宿泊して、主人に黒パンの他に食べ物はないのかと聞くと、肉類は全くないという。スープただ、イルチス川で獲れた魚の塩漬けがあると言う。それではと、塩漬け魚のスープを頼んで黒パンに添えて食べたのだが、このスープに当たったのであろうか、この夜から下痢をしたので持っていた薬を飲んで、翌日もここで滞在した。翌々日の22日午前6時半に出発し、昼頃にパブロダール市に着いた。ここはオムスクとセミパラチンスクの間192里における唯一の町であり、イルチス川の右岸に臨んでいる。汽船で川を遡るほとんどの者がこの町に留まり、セミパラチンスクまで溯る者はほとんどいない。それは川の水深が浅いだけでなく、通商の必要度が少ないためらしい。パブロダールの人口は約4千、この時はコレラが既に侵入して毒気が蔓延し、18日間で新たに発症した患者が264人に及び、その内の246人がみんな死んでしまった。そして、この地の医師は二人いたのだが、その一人はコレラが流行するとすぐに医薬品を持って他の地方に逃げてしまったので、オムスク軍管区から軍医が一人出張してきてはいるが、毒気充満したこの地に医師は二人だけに過ぎないのである。中佐は下痢の治まらないまま毒気の蔓延した地に入ったので、用心するにこしたことはないと思って薬屋で石炭酸を買おうとしたのだが、すでに売り切れて薬は無かったのであった。

二馬不良

8月23日午前6時、パブロダール市を出てから8日間で315露里進み、8月30日にセミパラチンスクに到着した。新たに買った二頭の馬の健康状態を確かめるために試しに乗ってみたが、キルギス人の酋長が言葉を尽くしてほめちぎったわりには丈夫な馬ではなく、二馬不良二頭の馬を1時間毎あるいは10露里毎に交互に乗り換えて労ったけれども、足は弱くて疲れ易く、特に初めに買った鹿毛などはとうとう足を痛めて鞭打っても動かず、後で買った牝馬も体は小さく足が弱いため非常に疲れ易く、たいへんな苦労をしてやっとセミパラチンスクに着くことができたのであった。キルギス遊牧民のようなものは、不安定で質の悪い牧草を追って移住し、心根はほとんど常識的な人の考え得る範囲の外にある。名誉を思うことなく、栄誉や恥辱を知らないので、ただ目先の小利に迷って人を欺くことを恥としないのであろう。セミパラチンスク州の知事はパブロダールとセミパラチンスクとの境界における警察官に命じて中佐の道案内をさせ、さらに中佐を出迎えるためにセミパラチンスクから80露里ほどの所に一人の文官を遣わし、中佐が近郊に至るや参事官のマシコフ氏をもって出迎えさせたのであった。このマシコフ氏はフランス語が堪能であったため、中佐が滞在中の接待役を命ぜられたのである。中佐はマシコフ氏に案内されて、市の近傍にあった予備歩兵大隊の野営地に到着して昼食の饗応を受け、その後用意された旅館に入ったのであった。

冬支度

風物荒涼

セミパラチンスクはイルチス川に沿った町であり、水運の便が無いわけではないが高原上の一市街なので、雨が少なく風の日が多く、ひとたび風が吹くと砂を巻き上げ、道は全くの沙漠で一本の樹木を見ることもない。人口はおよそ1万、市内の人家は全て木造で、風景は極めて荒涼としている。このように風土はすこぶる悪く健康にはよくない地であるので、コレラがひとたび侵入するとその勢いは予測がつかないほどになるだろう。この時、すでに一日6~7人の新しい患者が発生していた。公園の花町の一角に公園があり、小さな規模ではあるが数種の花が植えられていた。この辺り一帯は砂地で緑の草木を見ることができないから、夕方になると老いも若きも連れだち、子どもたちは集団となってこの公園にやってきて花を見て楽しみ、緑陰で涼をとる者が多かった。公園の一角には集会所があり、紳士や商人たちが一日中ここに集まって遊ぶ所となっている。この地は荒涼とした小さな町にすぎないが、昔は交通上の重要な地であり、ロシアが中央アジアを征服し、キルギスを破り韃靼人を支配するときに、堅固な城をこの地に築いて根拠地としたのである。それゆえ、当時の城塞は廃れ、現在はその面影を残してはいないが、公園の隅に今なお堡塁跡があってその上に大砲の残骸が遺っており、この地に遊ぶ者に当時の威武を想像させるのだそうだ。

駐馬三日

以前、愛馬の凱旋が病気のために騎行の用に耐えなくなってウラルを買わなければならないことになり、旅費が予算超過となって残金も乏しくなっていたので、身の回りのものを節約して靴下のようなものでも破れても買わず、あるときなどはペルミからオムスクに至るまで片足の靴下のまま騎行したことさえある。無駄遣いを慎み質素を第一としたが、一方で日本帝国軍人の体面を汚すことのないように努め、市とも言うべき地に入った時には軍人にふさわしい旅館に宿泊し、お世話になった人々への謝金等は後ろ指を指されないようにきちんと支払ったので、日増しに残金は乏しくなっていった。ちょうどその頃、ウラルが疲労困憊して動けなくなり、再び馬を買わなくてはならなくなって旅費は益々乏しくなり、セミパラチンスクに着いた時には、鞄の中にはわずかに500ルーブルが残っているだけだった。そうして、気候は次第に寒くなり、すでに華氏50乃至60度(摂氏10度~15度)に下がってきたので、これから先の蒙古の寒地に入るには、中佐の衣服は薄すぎて寒さを防ぐには不十分である。アルタイ山時あたかも、中佐に忠告する者がいた。アルタイ山のウランダッパでは先日すでに雪が降りました。この山はひとたび雪が積もると道路は通行不能となり、また最も危険です。南に折れてザイサンスクに出てタルバハタイ経由でコフトに向かうか、そうでなければすぐに東北に向かってトムスク街道経由でイルクーツクに出るに越したことはありません、と。しかし、旅程の計画はすでに出来ており、当初の志を変えることはできない。そういうわけで、このままウランダッパの雪を踏んで進むことに決めたのだったが、それにしても必要なものは防寒の準備であるのに鞄の中の残金が少ないことが気がかりだったので、イルクーツクに旅費を送金したとの日本からの電報を受け、取り敢えずイルクーツクに電報を打って700ルーブルを取り寄せ、ようやく防寒の準備を整えたのだった。このためにここセミパラチンスクに6日間滞在した。

訪問

セミパラチンスクに到着した翌日、州の軍務知事参謀で少将のカルボフ氏を表敬訪問した。その頃市内で建築中の知事官舎は完成間際に失火で焼けてしまい、知事は市外の農家を借りて傍にキルギス風の帳幕を張り、家族が二カ所に分かれて住んでいた。カルボフ氏は寡黙で篤実な人であった。中佐の騎行に対して配慮を惜しまず、できるだけの便宜を図ってくれた。その後、副知事を訪れた。副知事はこの地で長年その職にあり、蒙古辺境の事情にも明るく、寒くなってからのアルタイ山越えの難しさを考え、「道は悪くて危険である上、風雪厳しく人の往来もない山中では、宿を探すにも道案内人がいなくてはどうしようもないでしょう。アルタイ駅にお着きになったらキルギス人を道案内にお雇いなさい。私がそのお世話をいたしましょう。」などと親切に語るのであった。続いて警視監のもとを訪れた。警視監はかつてエカテリンブルクで任務についていたとき、たまたま我が国の榎本公使が巡遊してその案内を務め、記念に公使の写真をいただいたと言って一枚の写真を取りだして見せてくれた。榎本武揚遠く故郷を離れた地を旅する者が、懐かしい人の写真を異境の地で見る、その感激はお分かりいただけるであろう。次に予備歩兵大隊長を訪問した。大隊長は60歳ぐらいで髪の毛はごま塩で、立ち居振る舞いは矍鑠(かくしゃく)としていた。素晴らしい軍功のある軍人で、コーカサス戦役以来他国との戦いにはほとんど参加し、胸に掛けたたくさんの光り輝く勲章やメダルがその武功を物語っているが、中でも見る人を驚かせるのがコーカサス統一戦役のメダルであり、他のメダルが紐で胸に下げる方式なのに対して、これだけがコイン大の十字架を左胸に付けて武勲を示していた。当時従軍していた軍人達も年老いて、今では生存している人も少ないので、文官も武官もみんな此の人を畏敬しているそうである。

その他滞在中のこと

この日、軍務参謀長の招きで晩餐を御馳走になった。参謀長は副知事と同格であり、州の軍務知事の下、副知事が行政を司り、參謀長が軍務を担当しているそうである。この日、知事も家族を連れてきており、食後中佐の二頭の馬を引いて来させ、參謀長自らが中佐の乗馬姿の写真を撮影した。翌9月1日の夕刻、今度は警視監の晩餐会に招かれると、副知事の夫人も来ていた。一人のタタール人も同席しており、この町一番の豪商であると紹介された。この夜、歩兵大隊が中佐のために夜会を開いてくれた。社交ダンス中佐が行くと、歩兵将校の妻や娘が全て集まってドレスの裾を翻して踊り、しきりに中佐に一緒に踊るように勧めた。中佐はもちろん軍人であるので長い間外国で生活し、しばしば社交場に出入りする機会はあったものの、これまで一度もダンスを習ったことがない。それで、貴婦人が近寄ってきてダンスを誘われることは社交場では大変光栄なことではあるが、断る言葉を探すのに骨が折れ、やっとの思いでその場を逃れたのだった。翌2日は知事の晩餐会に招かれた。食事の合間に楽隊の演奏があったのだが、宴がお開きになって退出しようとすると、知事が楽隊に命じて行進曲を演奏させた。これは少将以上の将官級の軍人をもてなすための曲なのであるが、この日は日本帝国陸軍少佐のために特別に演奏されたのである。

防寒衣物

防寒衣物セミパラチンスクに6日滞在して防寒用の衣服がようやく整った。黒い羊毛を裏地に付けたキルギス風の外套、なめし革のズボン、毛皮のズボン、耳当ての付いた毛の帽子などである。セミパラチンスクの寒さは東部シベリアに比べるとそれほどでもなく、極寒の頃でも列氏零下25度(摂氏マイナス18度)以下になることは稀である。それで、この地方では防寒用具でも十分には用意出来ない。もちろん東シベリアの寒さを想像して衣服を作らせることも出来ず、この地方のやり方に任せるほかない。そういうわけで、ここで作った防寒具はあまり長くは使えず、毛皮のズボンなどはウランダッパの寒さにすら耐えることができなかった。外套はかろうじて蒙古騎行中の3分の1ほどの間しか使えなかったが、なめし革のズボンはこの辺りのコサックが常用しているもので毛が細く風を通さず、毛の帽子も寒さを十分防いでくれ、冬期の全行程を終わって日本に持って帰ることができた。ところで、衣服の値段は意外に安価で、なめし革のズボンが2ルーブル50コペイカ、黒羊毛の外套裏地が15ルーブル、表地が6ルーブル、裁縫をしてくれたキルギス人の賃金が5ルーブルにすぎないのだった。中佐が思うに、日本には欧州各国の馬具やロシアコサック兵の鞍なども珍しくはなくなっているが、ただキルギス人の鞍は無い。彼等は勇猛な騎兵として世界に知られた遊牧民であるから、その鞍を日本に持ち帰れば何らかの参考にはなるだろうし、質素な遊牧生活でありながら馬具の装飾には金銭を惜しまないキルギス人の価値観を理解する役にも立つだろうと、キルギス鞍を一つ買って一頭の馬に付け、ブリエスナヤ村長から贈られたコサック鞍は記念としてこの地に留め置くことにした。知事夫人からは中佐への記念品として小さな湯沸器を贈られた。これは中佐が酒や煙草を嗜まず、茶を好むことが知れ渡っていたからであるようだ。参事官のマシコフ氏からはキルギス風の鉄の鞭を贈られた。中佐がここセミパラチンスクを発ち、遠くシベリアを横断して蒙古や満州を通ってウラジオストックから東京に着くまで一日も手放さなかったのがこの鞭である。

銀片嚢に満つ

銀片防寒衣服はすでに準備出来たけれども、まだ絶対に必要なものが一つある。それは何かと言うと、蒙古の通貨である。蒙古には本来金銀銅などの貨幣はなく、紙幣は言うまでもない。通貨の代わりをするのは磚茶(たんちゃ:茶の茎葉を蒸して薄板状に圧し固めた下級品の茶)だけである。しかし、磚茶は嵩高くかさばって重いので、数十日の旅費を賄う分を運ぶためには数頭の駱駝が必要となる。ある人が、蒙古人は略什噶爾(カシュガル)の銀貨を好むということを教えてくれたが、これにしても多くの銀貨を手に入れることは容易ではない。蒙古人は銀を好むということなら、銀の小片をたくさん持っていくに越したことはないだろう。しかも、蒙古内で物を買って宿賃を払っても、とうていお釣りはもらえないだろう、しからば、持って行く銀片はできるだけ小さいほうが良い。ところで、セミパラチンスクから清露国境の亞爾泰(アルタイ)山中の烏蘭達巴(ウランダハ)に至るまで170里の間、人家は寂しいコサック村だけで、町と言えるのはウストカメノゴロスクだけである。ここにしてもひっそりともの寂しい原野にある町にすぎず、ロシアの紙幣で蒙古を通過するに必要な銀片を買おうとするとセミパラチンスクでないとできないような不便な所である。そんなわけでセミパラチンスク滞在中に銀を集めにかかったのだが、なにぶん多額の銀片なので、その収集は非常に難しかった。そのとき中佐はふと前夜警視監の晩餐会に同席していた韃靼人のことを思い出した。彼はこの町でいちばんの豪商であると聞いていた。しかも一度出会って顔見知りになっていたので、何らかの世話をしてくれないこともあるまいと思って彼のもとを訪ねて銀片への両替を頼んだところ、彼は快く承諾してロシア通貨200ルーブルを銀の小片に両替してくれたのであった、それを四つの布袋に入れて、イギリス鞍に付けた四つの旅囊に入れて持っていくこととしたのである。

細流清冽

旅の準備が全て整ったので、9月6日の正午にセミパラチンスクを出発し、42露里半進んで午後7時半にタリッキーという所に着いた。ここもコサック村である。アルタイ駅に着くまではいつもコサックの民家に宿を借りることになった。辺りの土地は一面の草原であり、ときどき道の傍に小川が流れており、草の間を縫ってさらさらと音を立てて流れる清流は飲むことができる。中佐はしばしば小川を渡って進み、大草原がまもなく終わってようやく山脈が近くなったことを知った。馬上から見渡すと、夕日すでに沈み、夕暮れの景色はぞっとするほど寂しく、ひんやりとした秋の気配が衣を通して感じられて、さわやかなことこの上もない。セミパラチンスクは高原の砂地にあり、風土としては健康にたいへん悪いためであろうか、出発の前日から頭がずきずきと痛んでいたのだが、このさわやかな景色の中に立ってみると、頭痛はすーっと消えていたのであった。

露国の祭日

イルチス次の日(9月7日)午前8時に出発した。イルチス川右岸の本道は砂の多い丘陵地で歩きにくく、左岸は草原で騎行するにはすこぶる便利である。そこで、川を渡って左岸を行こうと思い、村を出て67露里の渡し場に着いた。村長や宿の主人も送りがてら同行してきて船頭の小屋でしばらく休憩し、川の水を汲んで羊のスープを作って鶏卵なども煮て歓待してくれた。この辺りは田舎の人らしく気が長くて左岸の船頭に早く来るようにと呼んでもいっこうに船を回してくる気配がなく、一時間ほどしてようやく漕ぎ戻ってきたので、人々に別れを告げて船に乗った。30分ほどで左岸に着いた。左岸は道が平坦で、ところどころに松の老木が立っており、両手ですくい取れそうなほどに美しい緑色があふれている。数十日の間代わり映えのしない高原を騎行してきた眼には、新鮮な緑がとても気持ちよく感じる。眼を大きく見開いて遠望すれば、遠くの山々がかすかな青みを帯びて地平線上に連なり、アルタイ山にようやく近づいたことを感じるのである。そうこうするうちに再び川を渡って右岸の一小村で休憩し、午後4時再び騎乗して、夕日が全て没し月が東の空に昇った頃にヒヤノヤルスカヤ村に着いたのである。この日の行程は49露里であった。この夜、投宿した家の主人は全てのことに不親切で、肉が食べたいと言ったのだが、今日は斎日(さいにち:精進日)だと言って出さず、肉が無理なら魚でもと頼んだのだがそれも無いと言って出そうともしない。それならお茶と黒パンで空腹を満たそう、馬にもいつものように烏麦を与えようと、銀を出して烏麦を買ってくるよう頼んだのだが、顔を背けて言うことを聞こうとしない。それで村長に来てもらい、オムスク総督の命令書を示して世話を頼んだが、それでも烏麦は無いと言って断り、与えてくれなかった。仕方が無いので、馬にも黒パンを与えて一晩過ごしたのだった。翌朝、一人の男が来て、烏麦があるけれども必要かと言った。昨夜無かった麦が急に今朝になって実ったのだろうか。あまりに憎らしいとは思ったが、馬をそのままにはしておけないので、買い取って食べさせた。出発しようとして主人に謝金として2ルーブルを与えた。これは通常以上の高額な謝金であるのに、彼はひと言も礼を言わなかった。万事、この辺の田舎ではこのような不可解なことが多かった。そもそも、斎日というのはギリシャ正教の精進日で、一年365日のほとんど4分の1は斎日である。特に、今日も明日もと幾日も続くことがあり、そんな日は全て獣肉は禁ぜられるが魚肉はかまわない。今日も明日もと続くようなときに何日も肉を食わないでいられるはずもないので、都会の人は戒律をきちんと守るようなこともないようだが、片田舎の農民などはなかなか信心深くて頑固に戒律を守ろうとするらしい。以前、中佐がチョルノヤルスカを通ったときも斎日に出くわし、肉を要求したけれども得ることができなかった。この頃この辺りはイナゴの害が大変深刻だった。中佐が居合わせた人々に向かって、斎日は家畜にとって幸運な日で、魚には不幸な日である。獣も魚もみんな命あるものだが、どうして一方には情厚く他方には薄いのかと尋ねたところ、人々はみんな答えることができなかった。その命を奪うことなく幸せを求めようとするならば魚も食わないのがよいのではないか。魚をも食わないようにするのであれば、イナゴの害もないであろうにと言ったので、人々はみんな大笑いしたのであった。

漸く高低有り

9月8日午前8時にヒヤノヤルスカヤ村を出発した。村を出て数里の所で道が二つに分かれている。左はトムスク街道である。高原と清国国境との山間にあって、辺りはシベリアで最も肥沃な土地が広がっている。右は即ちアルタイ街道である。二本の電線がここで各々一本の線となって分かれている。中佐は右の道をとって進むこと43露里進んだ。これまでは平坦な地形の原野であったけれども、この日は丘を越えることが三度あり、地形の高低がようやく見られるようになった。山地に近づいたからであろう。66露里進み、まさに日暮れ方にウストカメノゴロスクに入ろうとするとき、騎乗して出迎えに来た歩兵・騎兵・砲兵の将校等十数人に出会った。中佐と出迎えの将校等はそこから一緒に市外にある常備歩兵大隊の野営地に向かい、月が昇るころに着いて盛んな晩餐の饗応を受けた。食後は予め準備されていた市内の文官倶楽部に泊まることになった。この地の郵便局長はドイツ語を話すので中佐滞在中の接待係となり、その他にもロシア語が堪能なキルギス人一人が中佐の世話係となった。

守りの堅い国境

ウストカメノゴロスクは山間の小さな町で海抜804尺(約240m)、セミパラチンスクより136尺(約40m)高い。人口はわずか4~5千に過ぎず、見たところ寂しい村落が点在するだけである。しかし、ここは清国とロシアの国境が交叉する地点にあって、蒙古の科布多(ホブド )に対する重要地点であり、戦時編制の歩兵一大隊、シベリアコサック第三連隊の一中隊及び山砲兵の一中隊が駐屯している。大砲騎兵連隊の司令部は齋桑斯科(ザイサンスク)にあり、ザイサンスクは南方のザイサン湖の南岸に位置し、その南方の山脈を隔てて清領塔爾巴哈台(タルバガタイ)と相対し、最も辺境の重要地となっている。ザイサンスク駐屯兵は戦時歩兵一大隊、シベリアコサック第三連隊の4中隊及び山砲兵である。ロシアの騎兵は6中隊をもって1連隊を編制する、第三連隊の他の1中隊はアルタイ駅に駐屯している。即ちホブドに対する第一線の兵である。セミパラチンスクから東に向かって伸びている二筋の電線がある。一本は南に折れてザイサンスクに至っている。ほとんど軍備なしとも言える蒙古に対して、ロシアの軍備はこのような状態である。ああ、何と周到な備えであることよ。中佐は次の日、この地で山砲兵の演習を観覧した。この山砲兵は地形に応じて騎砲と山砲の運用を適切にできるような編制となっており、山間の険しい場所で砲車が通れないような所では砲や車を分解して全て馬に乗せて兵が徒歩で馬を牽いて行き、道がやや平坦で砲車が通行できるようになれば砲や車を組み立て、騎乗した兵がこれを引いて行くのである。山地には最も適切な編制である。兵は皆演習に熟練し、砲車を分解してから馬に載せるまでが12分、馬から下ろして砲車を組み立てるまではわずか6分しかかからないので、操練は完全に出来上がっているようだ。よく訓練された兵をもってほとんど軍備のない隣国との境に配置する、これはまた何と勢いのあることだろう。郵便はオムスクまでの週3便とセント・ペータースブルクまでの週2便がある。18日かかるそうである。

奇遇

酋長から購入した2頭の馬は役に立たないので更に他の乗馬を買うとともに、防寒用物品の不足を補うためにこの地(ウストカメノゴロスク)に2日留まった。到着の翌日、警部長を訪問した。警部長は、これより前の馬に関する記事で触れたように、訳あって士官から兵卒に降格されることが2度もあった人で、蒙古との間を往来して長く科布多(ホブド)に駐在し、かの地の事情をよく知っているので、中佐の防寒準備がまだ不完全なのを見ていろいろな忠告をしてくれたので、この地で裏地が毛の上着を一着と同じく裏地が毛のズボン一着を作ったのである。続いて司令官、裁判長、大隊長を訪問し、それから砲兵中隊長を訪ねた。この人は以前ポーランド北部のオストロレンカの中隊長であった時、中佐を出迎えて晩餐を御馳走してくれたことがあった。今また245日ぶりにこの地で再会したのである。中佐の旅行は山河を遠く迂回して進むなど時間がかかることが多いので、一年あまりの長旅の途中ではときどきこのような奇遇があった。夜会2この夜、この地の主要な人々が倶楽部に集って晩餐でもてなしてくれたが、会食の合間には楽曲の演奏もある華やかなものであった。引き続いてあの砲兵中隊長の夜会に招かれた。中隊長は訳あって先妻と離別し、新婦を連れてこの地に来ている。新婦はまだ二十歳ぐらいで世間に知られた絶世の美女とのことであるが、この夜は病気のために客を接待することができなかった。ロシアでは離縁の正否は裁判官が判断し、離縁の理由が正しいと認められた者は再婚することができるが、正しくないとされた者には再婚の道は閉ざされる。配偶者が病死した場合、再婚は3回までは認められるが、4回めは認められない。僧侶の場合は1回だけである。

命名祝日

皇帝
9月11日はロシア皇帝陛下の命名日であるので、午前10時から寺院にて祈りの式典があり、文武官が正装して集まり、式後寺院の前で観閲式があった。この日は一般市民も集まって皇帝を讃えた。上を信奉する心は他国ではめったに見られないほど厚い。この夜、歩兵大隊の野営地では夜会を催し、灯りを灯して花火を上げ、杯を酌み交わして踊り明かして皇帝を讃え祝ったのであった。警部長もまた名をアレキサンドルと言い、この日がその命名祝日であったので、友人や知り合いを招待して祝宴を開き、中佐も招かれたのである。宴が終わって退席しようとすると、警部長は中佐の手を握り、楽隊に命じて進軍の曲を演奏させつつ、中佐の宿となっている文官倶楽部まで送った。そもそも、我が国においては誕生日を一番に祝うものだが、ロシアに於いては命名日を祝う習慣がある。命名日とは1年365日の間、何月何日は何という名の日というように日毎に名を決め、日によってその名が異なり、9月11日はアレキサンドルという名の日であるので、上は皇帝から下は身分の低い男に至るまでその名の日なのである。そういうことであるから、9月12日に生まれた子供にアレキサンドルという名を付けようとする場合には、来年の9月11日を待たねばならないらしい。

三度乗馬を買う

旅の途中で馬を買ったことは以前に馬の項で詳しく述べた通りであるが、概略のみ記すと、二頭のキルギス馬は意外に弱く、ようやくアルタイ山が近くなったのに到底役に立ちそうにもなかった。それで、山地の気候に慣れた馬を買いたいと警部長やコサック隊長に相談し、数頭の馬を見たのだが皆よい馬ではなかった。ほどなく一頭の馬を群から引き出そうとする人がいて、この馬は先日まで病院にいた病馬ではないか、どうしてこんな馬を連れてくるのだ、と叱った。この病馬を売ろうとして連れてきた男は恥じ入った様子で去っていった。このような慌ただしさの中で馬を買うことの何と難しいことよ、すんでの所でだまされるところだった。さらに、月毛の馬の素性も明らかになり、競馬では常勝であると持ち主が言うと、馬に詳しい人々も良い馬だと言うので、中佐も納得して140ルーブルだと言うのを、警部長の仲介で75ルーブルで買い取った、ブリエスナヤで買った二頭のうち牝馬は記念として警部長に贈ったところ、この国の習わしとして馬は人からただでもらうべきものではないという言い伝えがあるとのことで、返礼として5コペイカの銅貨を中佐に渡した。我が国における縁喜のようなものであろう。このような諺はどこの国でも似たようなのがあるのだろう。他の一頭はアルタイ駅で乗馬を買うまでの臨時の乗り換え馬として引き連れて行くこととした。

アルタイ山中

馬首ようやく仰ぐ

すでに新馬を買い防寒衣類も整ったので、9月12日の午前6時にウストカメノゴロスクを出発した。郵便電信局長や参謀長、山砲兵大尉、軍医等が途中まで見送ってくれた。10里ほど先の小さな村で卓を囲んで茶を飲みしばらく休憩したとき、中佐に向かって山砲兵大尉が「あなたはロシア語をよく理解しているのがとても不思議だ」と言った。中佐が「いやロシア語はわかりません」と言うと、大尉が「しかし先日下士官と一緒にロシア語で話しておられたではないか」と言った。中佐が「たまたま少しばかりの日常生活に必要な言葉を一つ二つ知っているだけです」と言うと、大尉が「いやそうではありません、下士官はあなたとの話をメモしており、年齢とか宿泊する毎に十分すぎるほどの謝金を支払われるほど裕福であることなどを記録して報告してきたのです。私はその話の様子からあなたがロシア語にご堪能なことを知ったのです。」などと話した。接待に出ている下士官などは中佐の言動を報告することもあったのである。この日、裁判長も見送りに来るはずだったのだが、ウストカメノゴロスクから46露里のクラスノヤルスカヤ駅で二人のコレラ患者が発生してその方面に出張したために来られなかった。これが、中佐の旅行中最後のコレラに関する情報であった。さて、見送りの人々と村の東で別れを告げて8露里ほど進むと、道は山間の峡谷に入っていく。アルタイ山脈
セミパラチンスクから東はすでにアルタイ山脈の中なのである。高原を通ってきても大山脈の中であることはわからなかったが、ここにきて初めて山中に入ったことがわかった。時はすでに日も暮れ、周りは薄暗くなっている。ウリバ川を渡って再び渓間の小径を進み、何回か丘を上り下りして、また何度か渓流を進み山を越えて、ウリピンスカヤ村に到着して一軒の農家に泊まった。この日の行程は26露里であった。ここはコサックの寒村で、磚茶と黒パン以外には何もなく、砂糖さえないのでお茶をそのまま飲んだのであるが、どんなに貧しい村とは言っても砂糖がないずはなかろうに、下戸で甘党の中佐はどれほど不自由な思いをしたことだろう。

山深くかつ険し

翌13日は午前8時15分に出発した。駅の外は山で、あちこちで溪流がさらさらと音を立てて流れている。坂を11露里上っては1露里下り、再びまた上り下りしながら2露里進むと渓谷がやや開けてフェクリストーヴスカヤという小さな村に着いた。しばらく休憩して出発し、再び山を上ったり下ったりして、午後3時にシェベルナヤ村に着いた。この日の行程は29露里だった。磚茶と黒パンと鶏肉スープを手に入れたが、村中を探し回ってもひとかけらの砂糖も得ることができなかった。ウストカメノゴロスクから東はたくさんの丘陵が幾重にも重なり合ってようやく本当の上り坂になってきた。道は次第に険しくなり山には樹木がないが、この辺りは秣に適した草が生い茂り最も牧畜に適した地である。沿道の村々はみなコサックの放牧地であるという。

翌19日(14日の誤り?)は午前6時半に村を出て、すぐに険しい坂を上った。4露里ほど高原を上下し、さらに9露里進んでこの嶺の頂上に着いた。頂の両脇は高く盛り上がり、中央が凹んで一筋の道となっている。その形状が鞍に似ているので鞍嶺とか言うらしい。晴雨計の測量によると、下の村からの高さは約1400尺(約420m)であるから、いかに高いかがお分かりいただけるだろう。嶺を下ると道は渓谷の間に入り、険しい岸や絶壁が両側に迫っている。道は急傾斜である上に岩石が横たわり、溪流の水が道にあふれて騎行が難しかったが、5露里ほど下ると少し平坦な場所に出て、小さな流れを渡ってアレキサンドロースカヤの駅舎に着いて休憩した。

蜜をもって糖に代える

アレキサンドロースカヤ駅舎の奥さんは中佐を丁寧にもてなしたけれども、ここにも砂糖はなかった。茶に砂糖がないのは美人に鼻がないようなものである。アルタイ山一帯の道路は非常に険しく輸送の便が悪いので、日常雑貨が大変不足しているという。そういうことで、生活になくてはならぬ砂糖を手に入れることが難しく、この地方では蜂蜜が代用品として使われる。アルタイ山中は草花が豊富なので蜜はたくさん採れ、その産出量は驚くほど多くて値段も非常に安く、1プード(16.38㎏)が上等品で5ルーブル、中等品で4ルーブル、下等品で3ルーブルに過ぎないとのことである。中佐がここを通過した時は秋もすでに深まって紅葉の季節になっており、野には霜が降りて草花はほとんど枯れてアルタイの豊かな植物を見ることはできなかった。それでも蜂蜜の製造が盛んに行われていることを聞き、この地が咲き乱れる草花に覆われていた時期の豊かな美しさに思いを馳せるのであった。また、この辺りは牧草に富んで家畜はよく繁殖し、馬一頭の値段が上等で50ルーブル、中等で3~40ルーブル、下等で20ルーブル、農馬が10ルーブル、牛一頭が上等で15ルーブル、並で10ルーブル、羊一頭が上等で3ルーブル、並2ルーブルに過ぎないと言う。2時間休息して再び騎乗して山を下るとコサックの牧場があった。ここから1露里のレツヨヴスキー村を過ぎ、すぐに間道を通ってまたも山道を上る。道はそんなに急ではなく、荷車なども通れそうだ。山上から眼下に一筋の川を望む。高くあるいは低く幾重にも折り重なる山々を背景に、斜陽を映した川面が輝き、さながら一幅の絵画を見るような美しい風景である。川の右岸に一つの村がある。アルタイ山脈2
中佐は馬に跨がったまま山上から遙かな村を望み見て、随伴するコサック兵にあれは何という村かと尋ねた。コサック兵は、ウストブフタルミンスカヤ村ですと答えた。中佐が戸数はいかほどかと問うと、160戸ぐらいですと言う。中佐が砂糖はあるかと聞くと、もしかするとあるかも知れませんと言った。そこで中佐が、君が先に村に行き砂糖2斤と茶を半斤買って私の到着を待てと言うと、コサック兵は馬に鞭を当てて一足先に村に向かった。中佐は砂糖入りの茶が飲みたい気持ちを抑えることができなかった。ゆっくりと山を下り村に着くと、コサック兵は言われたとおりに砂糖と茶を買って待っていた。村長が準備していた民家が不潔だったので駅舎に行き、すぐにお茶の準備をさせてたっぷりと砂糖を入れ、立て続けに5~6杯を飲み尽くした。眼がかゆいときに一滴の目薬をさしてすっきりとするように、気分が爽快になった。不思議に思われるだろうが、中佐は下戸で酒も飲まず煙草も吸わない。食べ物も特に好むものがあるというわけではなく、ただ腹がふくれればよいという考えである。しかし、お茶に関してだけは砂糖を入れて飲むことが好きなので、この数日間砂糖がなくて困っていたのである。この日の行程は45露里であった。

田舎の風景

9月15日は午前7時に出発し、ブフタルマ川を渡って高原の平野を進み、幾度も丘陵を上り下りしてゴロニー駅に着いた。ちょうどその時、駅の外で数百人の村人が集まっていた。そのうちの何人かは荷馬車に乗って節をつけて楽しそうに歌いながらやって来る。近づいて見ると、赤い杖を持った村長がキリスト像のような額入りの肖像の傍に立ち、たくさんの女性たちもみんな賛美歌を歌いながら従っている。詳しいことを聞くと、神の像をウストカメノゴロスクに遷すのだと言う。これはまさに我が国の田舎における神社の遷座祭のようなものであろう。しばらく山間をたどって高原を行き、左(「右」の誤りではないか?)にイルチス川を望みつつ、チュレムシャンスカヤ村に着いた。駅の路程表には20露里半とあるが、実は21露里である。この辺は我が国で昔36町を1里と言ったように、距離の単位にときどき差がある。途中の電信柱に里数を表示しているが、平地ではたいてい電柱15本で1露里の割になるが、山間部では道がうねうねと曲がっているので長さが一定ではない。だいたいの推測で計算するに越したことはないという。チュレムシャンスカヤはイルチス川の清流のそばにある山間の小さな村で、左岸には高い山々がそびえて、大木が村の周りを囲み、とても風光明媚である。遠くから見ると一つの公園のようである。ここでしばらく休憩し、鶏肉のスープで夕食をとり、午後4時に再び出発した。

酋長による出迎え

草原の中を14露里進む。すでに太陽は完全に沈み、夕闇が辺りに立ちこめて周囲は暗い。その時、道端に騎馬の兵士が数人整列しているのが見えた。中佐にはその理由がわからない。随行のコサック兵が彼等のそばに近寄って言葉を交わし、戻ってきて中佐に報告した。彼等はキルギス人であった。地方警察官の通知を見て、良馬を中佐に買ってもらおうとして来ているのであった。中佐が馬上から一礼して通り過ぎると彼等も騎馬でその後に従い、午後7時45分にマロクラスノヤルスキー駅に着いた。この日の行程は62露里であった。酋長は正装して部落長とキルギス人数人を連れてやってきて中佐に挨拶した。中佐は明朝馬を牽いてくるように言った。この夜、中佐は次のようなことを聞いた。ここから直にザイサンスクに通じる道があって3日で行け、ザイサンスクから清領のタルバガタイに行く道は荷車が通れて3日ほどで着くとのことである。この辺りの草原は牧草が豊富であるばかりでなく、土地が肥えてほとんど凶作のときがなく、イナゴの害もうけたことがない。麦がたくさん穫れ、烏麦1プードが30コペイカから25コペイカにすぎない。ロシア内地では1プードが1ルーブル2~30コペイカするから、その差は非常に大きいと言える。翌朝キルギス人が数頭の馬を引き連れて来て、選んでくれと言った。しかしどれも期待できるような馬ではなく、中佐は礼を言ってこれを帰した。

初めて雪山を望む

午前7時45分に騎乗し出発する。ここから山間の谷川は二つに分かれ、左はアルタイ道、右はイルチス川として直にザイサン湖につながっている。イルチス川に沿って騎行した40日の間、コレラの毒気が蔓延した荒涼とした原野を通りながら、中佐の鬱陶しい気分は何度この清流によって洗われ慰められたことか。しかし、今日からはここでこの川に別れを告げなければならない。中佐はため息をつきながら渓流に向かい次のようにつぶやいた。「ああ、イルチス川よ、混沌として汚れ多き世にあって、ただひとり清らかさを失わない汝の存在は私にとって最も嬉しいことであった。きっと末永く心に記憶して忘れることがないだろう。」そして、さっと鞭を上げて馬を打ち、左の渓流に沿って進んで行った。いくらも行かないうちに、遙かな地平の彼方のうっすらと広がる雲と霞みの間から、雪を頂いたアルタイ山脈が見えた。途中、二人のキルギス人に遇った。二頭の馬を引き連れており、買ってくれと言う。一頭は栗毛で肥えており。もう一頭は鹿毛で小さいけれども、二頭ともたくましく強そうな良い馬らしく、特に栗毛は背に鞍擦れの痕があるものの、蒙古を横断するのによさそうな馬である。買いたいことは山々だが、これまで何度かはずれ馬を買い、旅の途中で馬を買うことの難しさを思い知っているだけに、ともかくアルタイ駅に着いてから買おうと心に決めてこの場での購入を諦めたのだが、進むにつれて栗毛のことが心残りで、アルタイ駅で馬を買った後も、あの名馬を買っておけばよかったのにと残念がったものである。この日は43露里進んでマロナムルスカヤ駅に泊まった。ここは海抜1680尺(約504m)である。

小富士山

小富士
マロナムルスカヤからアルタイ駅まで70露里なので、明日は必ず到着しようと思い、早朝に出発するつもりだったのだが、昨夜は日記を書いていて夜12時過ぎまで起きていたので不覚にも寝坊してしまい、翌17日の出発は午前7時になった。15露里進んで小さな村に着いた。ここは30年余り前までは清国との国境であったらしい。それゆえ、清国はこの方面においてもまたアルタイ山の西の豊かな土地250露里(66里)を失ったのである。ここからは両側に山が迫り、渓谷の流れは激しくなって雷のような音を立てて流れている。流れを渡って蛇行した道を行くと視界はすっかり開け、前面の雲間に見える山々は全て雪を戴き、白髪の仙人たちが出迎えるかのようである。谷は深く真っ白な霜で覆われ、近くの木々も遠くの樹木も全て火の燃えるが如く紅葉し、かなたの山の白い雪を背景に鮮やかに映って非常に美しい風景であった。松林が断続する道を通ってゆくと、右の方に雲にまで届く高い山があった。山頂は白い雲を戴き、緑の松林の合間に見え隠れする。その形は周囲が玉のように美しく輝いて我が国の富士山とよく似ている。中佐はくつわをさすりながら振り返りって遠くから眺め、久しぶりに望郷の念を抑えることができなかった。その昔、文禄・慶長の役の際に咸鏡道に軍勢を進めた加藤清正公が、遙か海のかなたから日本を偲んでそっと涙を流されたとかいう。彼は高齢でありながら武器をとって征韓の戦に身を投じたのだった。さらに、彼が遙かに望み見ようとしたのは本当の富士山である。その荘厳さは言うまでもなく本物で、平和な時代の遠征中に富士と似た山を見たことなど同等に扱われるべきものではないが、大君を慕い日本を思う気持ちにどうして軽重があるだろうか。末長く帝国軍人がこの地に足を踏み入れたという痕跡を残したいと思い、中佐はこの山にアルタイ小富士という名をつけ、遙かかなたの山に向かって命名したことを告げて何度も振り返りながら進んで行った。清正の忠勇も中佐の壮烈も時代は違えども同じ手本であり、語り伝えるべき立派な行いである。流れを渡り森を過ぎ、しばしば坂を上下しているうちに日が完全に没してしまい、夜中の山中を行くこと8露里でアルタイ駅に着いた。ここに駐屯するコサック騎兵第三連隊の中隊長が現地人から中佐がやってくることを聞いて、夜間であるのに馬に鞭打って駅外まで出迎えに来ていた。セミパラチンスクからアルタイ駅までの477露里(67里)は、空がいつも晴れてよい天気であり、気温は少し肌寒い程度で景色も美しく、騎行はとても快適であった。この頃の気温は9月15日が列氏15度(摂氏約18度)、16日で17度、17日は14度に下がっていた。

アルタイ駅

アルタイ駅はロシアの宿駅では最も東にある。海抜3260尺(約980m)の山間部に開かれた小さな村であるが、国境警備の上では最も重要な地である。税関や郵便電信局があり、コサック騎兵第三連隊の一中隊が駐屯している。夏期には駅の南数十露里にある山間の湖畔にテントを張って訓練をしながら暮らし、湖水の凍結する冬期にはテントを撤収して駅に帰ってくるということである。一露里ほど東に小さな村がある。カトンカラガイと言い、清領であった時には蒙古遊牧民の土地であり、今なお村の名は当時のままである。現在はキルギス人がここに住み、商売をしている。騎兵の宿舎は駅と村の間にあると言う。中佐は馬を買って道案内を雇うためにここに2日滞在した。

馬と道案内人

ウストカメノゴロスクの馬はもちろん臨時の乗馬に過ぎず、ブリエスナヤの一馬は荷物運搬用の馬である。蒙古横断に適した馬二頭をこの地で買わなければならなかったので、これ以前にセミパラチンスクの参事官やウストカメノゴロスクの警部長を通して、ここアルタイ駅の税関役人のウラセンコ氏等に馬購入の協力を依頼する手紙を出しておいた。ウラセンコ氏は馬についてよく知っている人である。到着した翌日の18日にロシア人の牧場やキルギス人の牧場から数頭の馬を集め、ウラセンコ氏及びコサック中隊長等と共に馬を選び、葦毛の5才馬が群を抜いて優れていたのでこれを45ルーブルで購入した。これがアルタイ号で、アルタイ山中のブフタルマ河畔にあるロシア人の牧場で産まれた馬である。翌19日、チンギスタイ附近で牧場を持っているキルギス族の酋長が十数頭の馬を引き連れ、中佐に馬を見て欲しいと言ってきた。それでウラセンコ氏にこれを評価させ、さらに何度か試乗して最後に6才馬一頭を購入した。値段は40ルーブル、これがヒンアン号である。アルタイ号
先般セミパラチンスクに留まっていたとき、副州知事が道案内人なしに蒙古に入るのは難しいと心配し、ここアルタイ駅の役人に宛てて手紙を出してキルギス人を雇って案内人にするよう手配してくれており、税関長は昔ホブドに何度も行ったことのある元気なキルギス人一人を雇い入れて中佐の案内人にしておいてくれた。税関長は次のように言った。「ウランダハを越えるのは雪がないときに限ります。今はすでに寒くなって山は雪に覆われ、道は悪路で険しく通り抜けることは難しい。貴官(中佐)を送って蒙古に入ることをどうして務めないことがありましょうか。ただ、一人だけでこの険しい山の雪道を無事に帰ってくることは非常に難しいし、まして清露国境の地は盗賊が出没して武器を携行しなければ無事に通過することが難しい。ぜひ案内人には二人を雇い、彼等が無事に帰れるようにしていただきたい。」けれどもここでは道案内に適当な者が見つからない。それで、途中でさらに一人の案内人を雇うことにした。ヒンアン号とアルタイ号の二頭を乗馬とし、他の二頭を荷物用として蒙古のホブドに着くまでの準備として烏麦を載せることとし、さらに予備の蹄鉄も準備して蒙古横断の準備が整ったのだった。

女性軍団

9月20日は雨がしとしと降った。馬を売りに来た酋長も中佐を見送るために宿に滞在していた。旅の準備が整ったので、いざ出発しようとしていたとき使いの者が来て、今しばらくお待ち下さいと言う。しばらく待っていたのだが余りに時間が経つので、とうとう馬に乗って酋長や案内者と一緒に雨の中を出発した。時刻は午前9時半であった。再び使いが来て、どうかゆっくりとお進み下さいと言う。理由は分からないが、言われたとおりゆっくりと進んだ。やがて、後ろからくつわの鳴る音や蹄の響きがして、騎馬の一隊が追いかけてきた。役人や村の男達の見送りだろうかと思って馬を止めて待っているうちに騎馬の一隊が追いついてきて、帽子をとって会釈してくるのを見ると、何とそれは見目麗しい夫人やか弱い令嬢などが男装して見送りに来たものであった。彼女たちは税関役人や騎兵士官の妻女であり、馬術のたしなみのある者はみんな男装して夫とともにてきぱきと馬に乗り、馬に乗れない婦人たちは馬車に弁当の箱を載せ、10露里余りのここまで中佐たちを見送るために追ってきたのである。中佐は思いがけない送別を喜びかつ感謝しつつ一緒に霧雨の中を進み、雲にとどくばかりに思われるほど高い山の麓に着くと、燃えるように紅葉した老木に馬をつないで枯れ草の上に毛布を敷き、柴を拾って火をおこして渓流の水を汲んで湯を沸かし、弁当を開いて盃を上げ、異口同音に中佐の旅の無事と成功を祝したのである。この人々は長くアルタイ山中に暮らし、言うまでもなくウランダハのいかに険しいかを知り、厳冬期の蒙古横断の旅がいかに難しいかをよく知っている人々であるので、中佐が降雪の始まったこの時期に厳しい地に入るのを心配していたのである。アマゾネス
女武者に仮装したしっかり者の女性達があれこれともてなす言葉を聞いて、中佐は情けある心遣いを感じるのであった。見送る人々の心も深い谷間に生えるいつまで草(キヅタ)のように深く、何時までも名残はつきなかった。ではさようならと立ち上がって手を握って別れを告げ、鞭を執って馬に乗り谷間をめざして駆けだしたが、何かしら呼ぶ声に思わず振り返ると、かの女性軍と役人紳士の一隊が立ち並んで口々に中佐の無事を祈りながらハンカチを打ち振っているのであった。

清露国境

幕営に投宿

この日(9月20日)35露里を進み、午後4時に成吉思台(チンギスタイ)に着いた。チンギスタイとは蒙古遊牧時代の地名であり、今もその名が使われている。付近はキルギス人の遊牧地であり、テントのほかには人家らしきものはない。少し小高くなった所にあるキャンプにアルタイ駅の騎兵中隊から分遣された一小隊が野営している。これは蒙古の科布多(ホブド)に対する軍事的最前線なのである。野営期は5月から8月の4ヶ月間であり、時には軍馬を進めて遠くウランダハ地方を探検する。軍馬は平日谷間の草原に放牧し、2~3人の兵卒をもってこれを見張らせ、ひとたび軍馬を必要とするときにはラッパの合図とともに馬を牽いて帰営するのである。士官も兵卒も皆このような山深くて家もないような所で4~5ヶ月間も駐屯して、飲食の楽しみさえないようなところであるのにもかかわらず、士気は全く衰えず兵士達の盛んな意気は兵営の外で感じられるほどにあふれ出ているそうである。ロシア国境はこのように軍備が充実しているのに、清領蒙古の辺境にいる支那の役人はその場しのぎで得られたかりそめの安心の上に太平の夢をむさぼって平気でいることがとても不思議なことに思われる。小隊長は中佐と一緒に騎行してここまでやってきて、幕営の傍にテントを張って泊まったのだが、この夜アルタイ駅の中隊長から野営撤去の命令が下った。明日は兵営をたたんで帰らねばならない。これは寒気が次第に厳しくなってテントでの兵営生活が困難になってきたからであろう。キルギス人の酋長が一頭の羊肉を持ってきて中佐に御馳走し、毛布を貸してくれたので夜の寒さを防ぐことができた。

羊の肉と松の実

翌9月21日にキャンプ地を出発すると、小隊長が6騎の兵を従えて見送ってくれた。21露里進んだ所をウロルスクと言う。ここはアルタイ方面にある村落の最終地点である。ここから東には一村落一人家もなく、馬車の通れる道もここで尽き、里程標もまたここで終わっている。送ってきてくれたキルギス人の酋長は年の頃70ばかりで、中佐に次のように言うのであった。「私はすでに年老いた。ずっと先まであなたを送ろうと思うのだがそれも難しい。ここでお別れしようと思う。」中佐はお礼を言って酋長を帰した。馬を走らせて小さな丘に上った所で、あの小隊長以下6騎の兵士達もまた別れを述べた。中佐は小隊長に許可を得て兵士達に酒代5ルーブルを与えて別れた。ここから東は道路が悪くて馬車が通行できない。。巨岩
山道は険しく、急坂を15露里登った高度2000尺(600m)余りの地点ではそびえ立つ巨岩が道に横たわり、削られたように切り立った崖は、一歩足を踏み外せば人馬もろとも千尺(約300m)下の谷底に落ちてしまうほど危険であった。再び6露里ほど進んで1200尺(約360m)ほど下の渓流に沿って下って行き、ようやく谷間の草原に出た。平地に一張りのテントがあった。この辺りをタバツウと言う。ここもキルギス人の村である。ウラルスクから25露里、チンギスタイから46露里のこの地まで来てもう一人の道案内人を雇い入れた。長旅の疲れを癒やすようにと、部落の長が羊肉を贈ってくれ、またキルギスの一少年もやってきて松の実をプレゼントしてくれた。松の実は山中で採れる貴重な品であるという。テントの外は周囲一面山である。険しい岩山が、緑の塀をめぐらしたように、岩石は緑の苔で覆われ、緑の松があちこちに生え、谷間にも松や樺の樹がたくさんあってこのテントを取り囲み、静かで奥深い景色はひっそりと静まりかえり、この世のものとは思えないほどである。中佐は馬を谷間の草原に放して草を食ませ、道案内人に柴を拾って火をおこさせ、羊肉を煮て食べて夕食とした。羊肉は胸を開いて串に刺し、遠火であぶったものが最も美味いそうである。

古の駐屯地を訪れる

翌9月22日は曇りだった。明け方にタバツウのキャンプを出発して23露里、やがて草原が尽きて山道になり、林を過ぎて山を登る。道は急坂で険しく、道には倒木が横たわったままであり、巨石が無数に散乱して荒れ果てたままの道はほとんど判別できない。道らしき所を探しながら登っていると雨が降ってきた。ようやく山上に着いて、樹間から遠くを見渡すと、前日チンギスタイ付近で降っていた雨はこの辺りでは雪だったのだろう、山は皆白く雪化粧していた。そのうち雨に混じって雪がちらつきはじめ、気温は列氏7度(摂氏約8度)に下がった。木橋
山を下って渓流の右岸に出て、谷に沿って上ると、この辺りはほとんど道がなく、岩石と泥濘とが馬の歩行を妨げるのみである。そして、道が最も険悪な所には、泥濘の上に長さ100~200mほどの木橋が渡してある。これは、かつてイリ地方(中国新疆ウイグル自治区北西部およびカザフスタン共和国南東部)に清露両国が軍を進め、まさに軍事衝突が起ころうとしたとき、ロシアが軍の移動の便を図るために架けたものである。以来数十年の間修繕されたこともないため、板は破れて柱は腐り、通行することはできない。橋のたもとには堅い泥が小山のように積み重なり、水が巨岩の間を流れている。馬はその間を進もうとするのだが、躊躇してなかなか動けない。道を探して一二歩進むような具合で、ようやくタバツウから35露里のチンダカツイに着くことができた。ここに廃屋となった木造の兵舎があった。当時両国が一触即発の緊張状態にあったとき、国境警備のために兵を駐留させた所である。今や誰一人いない廃墟となり、物の怪の住み家となってしまった。中佐は道案内人と一緒にイリ川の水を汲み、廃屋の中で湯を沸かして昼食をとった。

道中大雪になる

昼食後一本の橋を渡って谷間を五露里進んだ所で、またもやあちこちに横たわった巨岩や堅い泥が行く手を塞いで騎行することが非常に困難となり、同行していたキルギス人の酋長はとうとう手綱さばきを誤って馬もろとも転倒してしまった。進むにつれて雪はますます激しく降って帽子や顔に吹き付け、あれほど美しかったアルタイ山中の緑の木々も見えなくなった。目の前のわずかな距離でさえ判別することができない。そればかりか、道はますます険しく荒れている。案内人は進みながら枯れ木を切って馬に載せている。どうするつもりなのだろうか。よく分からないので捨て置いて急な坂を下ると谷川が激しく流れ、巨石がごろごろと重なり合い、雪が岩石を埋め尽くすほどに積もって堅い氷となり、馬でその間を進もうとするとつるつると滑ってヒヤッとする。一歩一歩慎重に馬を進め、再び急坂を数露里上るのだが、雪はますます激しく降り、周囲が全く見えない。厳しい寒さで骨の髄まで冷えてしまったので初めて手袋を着用し、スカーフを首に巻いて吹きすさぶ雪の中で険しい坂を上るのだが、すぐに巨岩に邪魔をされて道が分からなくなり、方角さえ判別ができずに道案内人でさえ彷徨ってしまって進むことができないような状態であったが、かろうじて何とか巨岩の間をくぐり抜けて山上に着いた頃、突如強風が吹いて雲を吹き散らし、雪も止んで空がようやく晴れ渡った。中佐がぐるりと周囲を見渡すと、見渡す限りの景色は先ほどまでの陰鬱な様とは打って変わって、夢のような世界が広がっていた。雪山先ほどまだ雪が降っていなかった時に見た美しいアルタイ山中の樹木は緑濃く茂っていたが、大雪が降り出して目の前が見えなくなった中で帽子を傾けて猛進していた時にも茂り合った緑の木々が眼に焼き付いていたのに、今はもう折り重なった山々の全てが雪を戴いき、あたり一面真っ白な雪に覆われて木も草も眼に入らない。山上から見た光景が先ほどまでとは大きく違っていたので、異なる時代に迷い込んだような錯覚を覚えたのである。嶺の上はやや平坦で、四方にはまた山があった。山は皆高く、万年雪を頂いた山はおそらく1万尺(3000m)を下らないであろう。そして、それら1万尺余りの高さの山もただの小高い丘のように見え、中佐が今立っている場所がすでにかなり高い所であることが分かるのである。嶺の上には平野があり、大小の湖水があちこちに散在し、山の上も下も見渡す限り何もない無限の空間の中に無数の大鷲が見えるだけである。嶺の上の平野を数露里進んで午後6時半、ウコックに着いた。チンダカツイからウコックに至るまで25露里、 タバツウから65露里、この間がアルタイ山中でいちばん険しい所であった。

再び野営地に泊まる

ウコックにもまたキャンプ地があった。これは税関を守る駐屯地であり、騎兵の下士官が一人と兵が10人いた。一年ごとにアルタイ駅から交代で駐屯している。中佐が聞くところでは、この辺りは六七月頃にまだ雪が降るという。冬の寒さがいかに厳しいかが想像される。この辺りには他に一つのテントもなく、雪に覆われた高山の麓で馬を友とし銃を枕として日々を送る。その苦労はチンギスタイの駐屯兵と同じとはとても言い難い。この夜、中佐はまたキャンプ地の帳幕に投宿した。幕の中には暖炉が一つり、駱駝の毛で織った敷物が敷いてある。その上に毛布を敷き、四隅には軍服を掛け、武器が飾ってある。食料には日にちの経った黒パンとキルギス人から手に入れる羊肉だけである。その馬は常に谷間に放牧しているらしい。この日、雪の降った時は列氏0度、夜に入ってからは零下4~5度にまで下がっていた。ちょうど一人の兵士でアルタイ駅に行く者がいた。中佐は一通の手紙をこの兵士に託し、日本に送る最後の便りとした。

大声で狼を追い払う

次の日(9月23日)、午前8時に出発した。数里の間、濃霧が立ちこめて周囲は全く見えない。突然霧が晴れると高く険しい山々が雪を頂いて聳えていた。左に見える高山は夏季のみ雪がなく、その他の季節は常に雪に覆われているという。小高い丘を進んで草原に出た。広さは20露里余りで中央に湖水がある。山の姿が湖面に映り、景色は実に美しい。湖畔で休憩した。道案内人は馬に載せてきた枯れ木を使って火を起こした。枯れ木は付け木であり、湯を沸かすには乾いた馬糞を使うので、その用意の良さに初めて気がついた。この辺りは山深い所ではあるが、寒さはそれほど厳しくない。草が多いので牧畜に適し、所々に羊の群れが草を食んでいる。狼の山その時、大声で叫ぶものすごい声が谷に響いたので何事かと(案内人に)聞くと、放牧の羊を狙っている狼を見つけた牧童が大声で付近の牧場に知らせているのだと答えた。そうこうしているうちに、遠くから騎馬の男が二人やってくるのが見えた。近づいて見ると、キルギス人が中佐の旅を慰労するために1頭の羊を持ってやってきたのだった。昼食後平野を進み、やがて野原は終わって山間に入った。山には沼沢がたくさんあり、また豊かな牧草があった。午後1時に雪を頂いた山の麓に着くと谷川があった。清らかな水は飲用に適している。頂上のウランダハには水がない。ここで一晩過ごそうと、近辺のキルギス人酋長が手配したテントを張り、その中で眠った。キルギス人が帳幕を張るのに要する時間はわずか20分ほどであった。そしていただき物の羊肉を料理して夕食をとり、余った肉はゆでて保存用にとっておいた。この夜の寒気は急に厳しくなり、一晩中眠れなかったほどである。ここは山頂のウランダハから5露里、海抜8千尺(約2400m)の地点である。

山頂に名を付ける

翌日は24日の朝7時半に出発し、石の多い路を進み沼や沢を渡って5露里上り、午前11時にアルタイ山頂に到達した。ダハとはやはり山の頂と言う意味なのであろう。ここが清露二大帝国の境界である。中佐がその境界上に立って周囲を見渡すと、境界を示す標柱もなく国境警備の兵士もおらず、荒涼とした風景の中を吹き渡るもの寂しい風が木々の梢を鳴らし、巨大な岩や石があちこちに横たわっているのを見るだけである。どこまでがロシアでどこからが清国であるのかは分からない。そこで馬を下りて道の左にある大きな岩の上に上り、小刀を懐から取り出して「大日本帝国陸軍歩兵少佐福島安正この地を過ぎる」と岩に刻んだ。山頂は海抜9300尺(約2800m)余り、その身は今最高地点に立っている。中佐は心を奮い立たせて独り次のように言うのであった。「アルタイ山よ、お前は世界でも有名な高い山であるが、今私はお前より数尺高いところにある」と。そして岩を蹴って飛び下り、颯爽と馬に乗り西方のロシアの山河を望み見て「さらばロシアよ」と叫び、鞭を一当てすると馬はすでに清領蒙古の地に入っていた。そもそも蒙古からシベリアに向かう道は三経路ある。一つはホブドからスオツクを経由して直接ロシア・オムスク州のヒスクに達するものであり、もう一つはタルバガタイから山を越てザイサンスクに至るもの、そして最後の一つはこのウランダバである。商人も旅人もみんなホブドやタルバガタイ経由の道をとり、ウランダバを通る者はほとんどない。これは道路が悪くて険しく、おまけに宿駅がないからである。であるから、中佐が数日間を費やして踏破したアルタイ山中で一人たりとも通行人に出遭わなかったのである。ただでさえ悪い道は、だれも通らないから益々荒れてさらに悪路となり、おそらく世界一険しい道だという。ああ、我が帝国軍人の名はこの険しいアジアの名山に残っている。山巓後日、もし岩に刻まれた中佐の言葉が風雪や地形変化によって消えたり見つけることが出来なくなったりしても、この険路を踏破した事実と中佐の名はアルタイ山とともに長く人々の記憶に残るのである。まさしく人々はいつまでも口々に誉め称え、後世にまで語り継がれることであろう。これは中佐が私的な功名心で行ったものではない。国の威信を海外に示すための行動なのである。そういうわけで、私は盃を上げて気持ちよく飲み干すことができるのである。


「蒙古高原」に進む




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